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【時の話題:国語教育を考える】
五味渕典嗣:「新しい国語」が投げかけるもの

2022/07/19

  • 五味渕 典嗣(ごみぶち のりつぐ)

    早稲田大学教育・総合科学学術院教授・塾員

いよいよ2022年4月から、新しい学習指導要領にもとづく高校の授業がスタートした。このうち、高校国語の「改革」をめぐっては、一連の入試改革・教育改革批判とも呼応しながら、活発な問題提起が行われてきた。ここでは、少し広い視野から「新しい国語」の問題点について、あらためて整理しておきたい。

少し前のことになるが、『AERA』編集部が「教科書で出合った「心に残る作品」」というアンケートを行ったことがあった(「漱石と契約書「どちらか選ばないといけないの?」」、『AERA』2020年1月13日号)。1位は中島敦の『山月記』、2位は夏目漱石の『こころ』、3位が森鷗外の『舞姫』。他にも梶井基次郎の『檸檬』やヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』など、国語教育の世界でしばしば「定番教材」と呼ばれる文学作品が上位に並んだ。しかし、このデータの「読み方」には注意が必要だ。このアンケートがインターネット上で行われたもので、サンプル数も決して多くないという妥当性・信頼性にかかる問題だけではない。この結果は、少なくとも現在の中等教育の「国語の時間」で行われている授業の内容を反映しているとは言えないからだ。

どういうことか。これまでわたしは、近現代以降の文章の担当として、20年近く高校国語教科書の編集に参加してきた。教科書の編集プロセスは版元ごとにかなり違いがあるはずだが、少なくともわたしがお手伝いした際は、1冊の教科書を作るために、少ないときでも200本、多いときは400本程度の教材案を読み、候補となる文章を絞り込んでいった。国語の教科書といっても、ことばや文化、文学を主題とした文章だけが収録されるわけではない。哲学や倫理に関する文章、政治や経済、法律の基本的な考え方を説いた文章、社会の近代化や後期近代のジレンマを説く文章、メディアやコミュニケーションの現代的なあり方を論じた文章、生命や自然の捉え方をテーマとした文章も含まれる。しばしば誤解されるが、高校国語の教科書は、名が通った文学者の定評ある小説や評論ばかりが掲載されているわけではないのである。1990年代以降の高校国語は、人文学・社会科学の基礎的な内容をベースとしながら、自然科学の領域までカバーする、日本語による「知」の窓としての役割を果たしてきた。現場の先生方には明らかに過重な負荷がかかっていたけれど、「国語の時間」は、教室の生徒たちに新たな「学び」への扉を開く、最初のステップを提供してきたのである。

だから、今回の「新しい国語」の問題を「文学の軽視」とのみ短絡する見方は、事態を適切に捉えているとは言えない。この間、新しい学習指導要領下で行われた教科書検定で、「小説が盛り込まれること」が「本来想定されていない」必履修科目「現代の国語」に小説教材を複数収録した版元のことが話題になったが、「新しい国語」が文字どおり実施されることで打撃を被るのは文学だけではないのである。むしろわたしが重要と思うのは、高校国語が「実用性」と「アウトプット重視」に舵を切ることで、文章を通じて人文学・社会科学・自然科学にかかわるさまざまな「知」のあり方に触れる機会が縮減されてしまうことである。何を「情報」「データ」と見なすかという判断の枠組み自体が多様でありうること。「正しさ」は決して一つではなく、何を「正しい」と見なすかという価値基準それ自体が歴史的に変化してきたこと。物事を考える入口は複数あり、それぞれが「学問」という世界につながっていること……。必ずしも意図されたプログラムではなかったかもしれないが、高校国語が結果的に担ってきたこうした知的訓練の時間が削り取られてしまうことが問題なのだ。「国語科」をもっと実用的なものにすべきと主張している人々は、高校国語がこの役割を放棄したとき、どんな事態が出来するかを想像したことがあるのだろうか。本来的に高校国語の「改革」は、高校教育全体のデザインを総合的に検討する中で議論すべきというのがわたしの立場である。

最後に、もう一度『AERA』のアンケートに戻りたい。そもそも現在の高校国語でも、文学教材に充当された時間は多くない。にもかかわらず、このアンケートでは、「印象に残った」ものとして、評論やエッセイではなく、文学作品が多く挙げられた。おそらくここには、人間にとってのフィクションの価値、物語と出会うことの意味という別の問題が浮上するだろう。この間、高校国語には、「古典は本当に必要なのか」という問いも投げかけられたが、過去の想像力の産物としての物語と出会うことの大切さは、近視眼的な「伝統」重視から離れて古典を学ぶ意義を考える、1つの補助線にもなる。国語の授業は、過去を見つめ、新しい時代を開く想像力を鍛える訓練の場であるべきなのだ。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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