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【時の話題:国語教育を考える】
小平麻衣子:文学を国語で勉強するということ

2022/07/19

  • 小平 麻衣子(おだいら まいこ)

    慶應義塾大学文学部教授

「文学国語」という科目が高校に新設されると聞いて、夢のようだと思う人もいるだろうが、怖気をふるう人も多いのではないか。教師の思う正解や感動を強要される、あの・・文学だけで構成されている教科書とは…。だが文学とは、そんなものだったろうか。

改訂された学習指導要領に従い、令和5年度の高校2年生から、「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」のうちから各高校が選択したものを学ぶことになる。文学に携わる者から主に問題とされるのは、「文学」が独立した領域として尊重されたように見えながら、授業時間数や大学入試との兼ね合いで実際には選択されにくい設計になっていること、「論理」を重視するために切り分けられた「文学」の捉えられ方が一面的に過ぎることである。

「国語」という教科では、感動や生き方よりも、言語を運用する技術修得を優先すべきという考え方はもっともである。ただし、それを「論理」だと言うとき、対極に置かれ遠ざけられる 「文学」には、みんなで読み味わう、いわゆる〈鑑賞〉的なありかたがイメージされているのだろう。だが、それはいささか古い、限定された文学イメージだ。

かつて1950~70年代に大量に発行された文学の入門書や、大学の一般教養の教科書を調べた際、〈鑑賞〉をめぐって、〈文学の神髄は誰でも直感的につかめる〉と言う同じ論者が、〈しかし、誰にでもできるわけではない〉とか、〈高度な鑑賞というものはある〉など矛盾とも見える主張もしているのをしばしばみかけた(くわしくは拙著『夢みる教養』でご確認いただきたい)。誰でもつかめるなら勉強は不要であるし、高度な領域があるのだとしてもどのようにすれば達することができるのかもわからない。確かに、秘儀のありがたみはあるが、それが学問かと言えば首をかしげたくなるだろう。

だがこうした言い方は、進学率が上昇した高度経済成長期ならではの大学の矛盾に起因している。すなわち、誰でも入る資格はあり、また卒業後は企業人になるために専門性は教養に切り下げられた一方、専門を極める最高学府でなければならず、進学できなかった親世代からの期待も負う、という矛盾である。〈誰でもできるが高度〉とは、この両方を同時に満足させるレトリックである。それがうまくあてはまるゆえに〈鑑賞〉という行為は重宝された。

この例から言えることは2つある。1つは、レトリックとは紙の上にあるだけでなく、人々を納得させ、世間を動かすものであるということ。2つ目は、レトリックが文学的なものだとすれば、いまそれを読み解いてみせたように、文学の勉強とは、言語を論理的に分析する練習だということである。レトリックというと、何かごまかすようなネガティブな印象もあるが、これまでぼんやりとしていた事柄を効果的に言い当て、人のこころを動かすのもそれである。こうした言語の運用や効果を分析的に学ぶのが、文学を勉強する重要な側面である。「文学」とは、個人と社会をつなぐメディアの1つであり、「論理」と背反もしない。

第一、小説などをよく虚構というが、現実にまったく根差さない虚構というのがあるものかどうか。現実への批判があべこべの世界になり、多数の動向に同一化できない違和感を特定のしかたで表出したものがある。そしてそれに同感する人がいる。新しい学習指導要領では、社会での活動やそのための話し合いを大事にする。それが重要なのは言うまでもないが、マニュアル的な言葉や、意味内容を要約・伝達するだけの言葉で完遂できるわけもない。

「羅生門」や「山月記」の文学教材で学んだ記憶を辿っても、何を学んだのか明快でないと批判されることもある。だが、言語の技術は血肉化されればこそ、それを学んだいきさつなど忘れてしまうたぐいの練習(例えば自転車に乗るように)なのだといえるだろう。上達するための方法を教師から生徒に伝えるために、意識化・言語化していくことは今後さらに必要ではある。だが逆に、学んだことが例えば〈善悪の判断〉とか〈日本の伝統〉といったテーマとして言い当てられるとすれば、それは言語を学ぶ「国語」の範囲を超えているし、まして文学でもない。

令和5年度から使用される「文学国語」の教科書は、各社が作成した11点すべてが評論も入れた。文学作品と論理の関係性を問おうという態度の表明だろう。この教科書は一般には来年度にならないと入手できないが、先ごろ、文部科学省が検定意見書をホームページで公開した。これを見ると、評論教材には概ね、教材を「近代以降の文学的な文章」に限定した「学習指導要領に示す内容の取扱い」に照らして不適切、という意見がつけられたことがわかる。各社はこれを受け、解説や問いなどを調整して評論の掲載にこぎつけたということだ。その改変の内実と成果の検証は今後に俟ちたい。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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