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【時の話題:沖縄本土復帰50年】
後藤新:太田朝敷と高嶺朝教──琉球新報とその時代

2022/05/13

  • 後藤 新(ごとう あらた)

    武蔵野大学法学部准教授・塾員

私が編集部から与えられたテーマは、右記のように太田朝敷(ちょうふ)(1865~1938)と高嶺朝教(ちょうきょう)(1868~1939)についてである。琉球新報は、現在も発行を続ける沖縄県を代表する新聞紙の一つなので、本誌の読者もご存知のことと思うが、太田と高嶺については、果たしてその名前を聞いたことがあるかさえたいへんに心もとない。

太田は首里の士族出身で、近代沖縄を代表する言論人である。とくにクシャミの仕方まで他府県と同じにするべきだとした極端な同化論を主張したことでよく知られている。また、沖縄の産業発展のため沖縄砂糖会社の社長や、晩年には首里市長も務めた。

高嶺も首里の士族出身で、沖縄初の私立銀行である沖縄銀行(現在の沖縄銀行とは異なる)の初代頭取として長く経営に関わったほか、初代県会議長や沖縄初の衆議院議員、初代首里市長を歴任するなど政財界で広く活躍した人物である。

2人は1882(明治15)年、第1回県費留学生に選抜されて上京し、学習院での寄宿生活を経て、ともに慶應義塾で学んだ。後の太田の言論活動において、とくに文明論については、福澤諭吉の『文明論之概略』の影響がよく指摘される。慶應義塾での学びは、太田らに強く影響したようである。

当時、沖縄県内では、明治政府が強制的に日本に統合した、いわゆる琉球処分を不服とする旧支配者層を中心に親清派が強い勢力を有しており、県庁は穏便な統治を行うため、いわゆる旧慣温存政策を進めていた。東京での留学生活を通じ、世界が大きく変化していることを知った太田らは、沖縄の近代化が遅々として進まないことに強い危機感をもった。こうして沖縄に戻った太田と高嶺は1893(明治26)年、尚順(最後の琉球国王尚泰の4男)を社長に、護得久朝惟(ごえくちょうえい)や豊見城(とみぐすく)盛和とともに琉球新報を発刊したのである。なお、護得久と豊見城も慶應義塾で学んでおり、さらに太田らと同じく県費留学生として慶應義塾で学んだ岸本賀昌(がしょう)や、慶應義塾出身で後に『国際法学』を著した今西恒太郎も東京で発刊の手伝いをしたという(1893年9月17日付『東京朝日新聞』)。

琉球新報発刊の目的は、沖縄の人々に世界の潮流を知らしめ、沖縄の社会勢力を育成し発展させるとともに、他府県からの差別意識を無くさせることだった。20歳になったばかりの尚順をはじめ、全員がまだ20代の若者であり、彼らは理想に燃えていたのである。創刊時はわずか500部ほどの発行数だったようだが、文明開化の象徴たる言論機関が沖縄に誕生した意義は大きかった。翌年に始まった日清戦争での日本の勝利もあって、県内の風向きは大きく変わる。親清派が勢力を弱め、太田ら新思潮派が影響力を強めたのである。

しかし、太田と高嶺は、日清戦争後に起きた公同会運動の挫折をきっかけに別々の道を歩み始めた。公同会運動とは、尚家を世襲の県知事にしようと政府に請願するもので、2人とも運動に深く関わっていた。ただし、そのような請願が認められるはずもなく、時代錯誤の復藩論として県内外から強く批判され失敗に終わったのである。

その後、太田は琉球新報を牙城として、文明化の必要を執拗に説き続けた。そして、その障害になるならば、批判の矛先は尚順らにも向けられた。一時期、太田は琉球新報から離れるが、長く琉球新報の社長を務めるなど死の直前まで言論人として活躍した。その間、太田の思考には変化もみられるが、沖縄の自立を目指す姿勢は一貫していた。そのためには文明化が必要不可欠であり、先に挙げた極端な同化論も、旧慣温存政策によって他府県より著しく遅れていた沖縄を1日でも早く変革させるためだったのである。

一方で高嶺は公同会運動の後、先述したように政財界で広く活躍した。とくに1912(明治45)年5月に行われた、沖縄県初となる衆議院議員選挙においては、立憲政友会から公認をうけ最多得票で当選を果たした。なお、もう1人の当選者は、同じく立憲政友会から公認をうけた岸本である。

しかし、高嶺は任期中の1914(大正3)年7月、突如、議員を辞職した。一説には、憲政会派の大味久五郎県知事による圧力が影響したとも言われるがよくわからない。高嶺自らが語るところによれば、「近来政界の波瀾重畳して召集頻繁なるが為め一年の中殆ど半歳以上を東京に送り自然余の従事しつつある沖縄銀行、沖縄広運株式会社及石炭業等に種々の支障を来すものあるが故に(…)専念事務に従事するの決心」(1916年7月7日付『琉球新報』)をしたのだという。高嶺の言葉を信じ、沖縄のためには政治家よりも実業家として活動することが大切であるとして辞職を決断したのならば、ここにも福澤の影響をみることができるかもしれない。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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