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【時の話題:“新書”で英語を学ぶ】
井上逸兵:タテマエから知る英語のわかり方

2022/01/20

  • 井上 逸兵(いのうえ いっぺい)

    慶應義塾大学文学部教授、中等部長

英会話本とダイエット本はそこそこ売れ行きが見込める、というのは出版業界の常識である。なぜなら、誰も目標を達成できないから、という笑い話がある。

日本は英語系ビジネスの一大マーケットでもある。紙の辞書の時代には、日本では「英英辞典」として知られる、英米系のLongman、Oxford、Cambridgeなどの辞書も日本での売れ方を意識せざるをえなかった。英検、TOEICなどの英語の検定試験も、コロナで2020年はTOEICが減少したものの、依然、右肩上がりである。

これほどの英語熱がありながらも、なかなか達成感が得られなかったり、上達した気分になりにくかったりするのは、理由はともかく、心の健康にはよくない。ここでは、拙著『英語の思考法』(ちくま新書)の目論見を通して、新書を通した心健やかな英語の楽しみ方の一つになりうる話をしてみたい。

多くの新書の読者層は中高年男性が半数近くと言われている。新書を書く場合はこの層をターゲットに考え始めるのが基本だ。落ち着いた、穏やかな知的刺激を求めている層だろうか。ところが、本企画の背景である英語新書ブームでは必ずしもそうではなかったようだ。コロナで「おうち時間」が増え、コロナ前のインバウンド歓待のムードも遠い昔に思え、「英会話」よりもじっくり腰をすえて本を読むという人が広い世代で増えたのかもしれない。

新書は一冊読んで、たちまち英語ができるようになるというたぐいのものではなく(そもそもそんな本はない)、どれだけ新しい気づきを読者に与えられるかが勝負どころである。この一冊で、英語に対する見方がちょっとばかりでも変わったということがあるなら、目的は達せられたことになるし、筆者としては喜びである。

『英語の思考法』は、内容的には社会言語学と認知言語学という分野の知見をもとに、英語の背景にある英米的なコミュニケーションの原理をかみ砕いて説いたものだ。一般向けに、おやじギャグをちりばめて、なるべく読み飽きないようにしたつもりだが、その成否は読者に委ねるしかない。それなりにご好評もいただいているようだが、ギャグが邪魔だという声も聞こえなくはない。

本書は、英語の表現やコミュニケーションの慣習を、「独立」、「つながり」、「対等」の3つの文化的前提をキーワードとして読み解くというものである。「対等」は「英語のタテマエ」とも呼んだ。

「タテマエ」は日本の専売特許と思われがちだ。日本人と付き合う外国人から「日本人は本音と建て前があってわかりづらい」などという声をよく聞く。これは半分当たっているが、半分は勘違いである。どんな文化にも「タテマエ」はある。ただ、それぞれにちがっているためにわかりづらいだけだ。自分の文化の「タテマエ」には無自覚、無意識になりやすく、それとはちがう他の文化のそれはやけに際だって感じられるものだ。

例えば、日本語の「よろしくお願いします」は、「自分はあなたより下位のもので、あなたに頼まなければやっていけません」という日本の「タテマエ」のひとつがよく表れる定型句だ。

このような「タテマエ」は、決して万国共通ではない。そして、英語ではまったくちがう。英語の「タテマエ」は「対等」だ。Nice to meet you.は上下関係を暗示しない。

相手と共通の経験を持っていることを言う時に、「わかるわー(今風に言うなら「それな!」)」という意味でよく使う表現に、I know the feeling.がある。「あなたの気持ちがわかる」だから、I know your feeling.と言ってしまいそうだが、慣用的にはyourではなくthe である。共有する感覚を相手と切り離してthe feelingというべきで、your feelingというと相手の「独立」した領域に入り込みすぎたキモチワルイ表現になってしまう。

拙著でしたかったことの一つは、英語、および英語圏の慣習について多く出回っている誤解を解きほぐすことだった。例えば、「英米人は謙遜しない」などが典型である。英米人も謙遜する。ただ、日本の謙遜と原理が異なる。日本のタテマエは、「私はあなたより下位の者です」だが、英米の謙遜は「対等」までしか降りてこない。ジョークで交わすのも英米的な「つながり」志向の現れだ。

「独立」は英米のコミュニケーション文化の際だった特徴で、相手の領域に入り込まないことにおいては、言わなくてもわかることをよしとする「エンパシー(共感)」の日本のコミュニケーション文化からすると、むしろ抑制が効きすぎるように感じられることもある。

福澤の「独立自尊」のアイディアの着想の源の1つにはこのような英米のコミュニケーション文化がある、と筆者は信じている。

こういう英語の「わかり方」を示すことは新書の役割の1つだと思う。

英語の思考法──話すための文法・文化レッスン
井上逸兵
ちくま新書
272頁、946円〈税込〉

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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