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【時の話題:「孤独」について】
斎藤慶典:人は皆「お一人様」

2021/06/23

  • 斎藤 慶典(さいとう よしみち)

    慶應義塾大学文学部教授

コロナ禍による「ソーシャル・ディスタンス」とやらの励行のためか、人様と離れて「一人」何かをすることが多くなった。外食をするにも多人数の会食などもってのほか、できれば黙って「一人」で食べろと言う。そのせいなのか、「一人」ということが注目されているらしい。とりわけ私たち日本人は集団意識が強く、つねに人様と横並びでないと安心できないたちだから、「一人」で何かしろと言われても困る。どうすればいいんだ。そういうことなら、いつも集団から外れて「一人」何やら訳の分からないことを呟いている哲学者という珍妙な人種がいる。そいつに尋ねてみるのも一興だ。かくして、私のような者のところに原稿依頼が舞い込んだらしい。何か面白いことを言うかもしれない、って訳だ。

ところが、お生憎さま。そうは問屋が卸さない。別に面白いことなんて何もない。人が皆「お一人様」なのは当たり前のことで、今さら騒ぐべきことなど1つもないからだ。その当たり前に皆の意識が向くようになったのなら、コロナの蔓延も案外捨てたものじゃない、と憎まれ口の1つも叩くのが関の山だ。つまり、コロナがはやろうがはやるまいが、人が皆「お一人様」であることに変わりはない。でも、そのことに気づき、その揺るがしがたい事実にあらためて向かい合うなら、それはきっとよいことだ。なぜなら、そのことが誰にとっても免れがたい厳然たる事実なら、その事実とどう付き合うかは、どのように生きるかに決定的な影響を及ぼすに違いないからだ。

では、人が皆「お一人様」であるとはどのようなことか。分かりやすいのは、誕生と死だ。あなたは、確かにいつか・どこかで生まれた。だから、今こうして生きている。あなたのその誕生という出来事を、誰か他の人に代わってもらうことができるだろうか。もちろん、太古の昔から無数の人々が生まれ、今この瞬間にも多くの産声が上っている。でも、それらはすべて他人(の)事で、私のそれはただ1回しかない。当たり前のことだ。しかも、自分で生まれようと思って生まれてきた人はいないから、それを私は知らぬ間に被って、気づいたときにはそれはもう過ぎ去っている。つまり、私はそれを現在において経験したことがない。それに立ち会ったことがない。それは紛れもなく私のことであって人様に代わってもらうことができないのに(それができるなら、それは単に他人が生まれたことにすぎない)、それが当の私の経験の枠外にあるなんて不思議じゃないか。私が経験することならまだ何とかしようもあろうけれど、その埒外にあるんじゃ、私には如何ともしがたい。それ位、私が「一人」であることは揺るがしがたい事実なんだ。

私の死も同じだ。そいつは必ずやって来るけれど、それは当の私の消滅に等しいらしいから、私はそれを私の事として経験することができない。私の死なら、私の誕生と違ってまだ何とかする余地があると言う人がいるかもしれない。確かに、死ぬ時と所を私が選ぶことはできる。典型的には自殺だ。どのように死ぬかも、ある程度は選ぶことができる。病院で体中にチューブを差し込まれて死ぬか、自宅で親しい人たちに囲まれて死ぬか、選べない訳ではない。でも、その死が必ずやってきて、しかもそれを被るのが私以外ではない点は動かない。ある状況で誰かが私の代わりに死んでくれることはありうるけれど、そのことは当の私がいつか自分の死を被ることを一切免除しない。自殺も死期を早めるだけで、その死を私が被るしかない点には指一本触れることができない。

でも、生の始まりと終わりがこのように徹頭徹尾私以外にそれを被る者がいないのなら、それらに両端を挟まれたこの生も、ひょっとして私以外の誰も被ることができないものなのじゃないか。しかも、生の両端と違って、それを私は紛れもなく私の事として経験できる。だとすれば、それは何か希有なことじゃないだろうか。それを今・ここで・現にそうである通りに「ありあり」と経験しているのは、私だけかもしれないのだ。他人は他人なりにそうしているかもしれないが、それは私にはこのように「ありあり」とはしていない。これが「お一人様」ってことなんだ。

最後にもう1つ。他人が経験しているかもしれないその「ありあり」に、私は決して触れることができなかった。それらすべてを「一人」抱えて、他人もまた生まれ、かつ死んでゆく。そのような他人とその経験に、私は何か畏敬の念のようなものを覚えずにはいられない。「お一人様」が他の「お一人様」に送るエールみたいなものだ。ここには、決して共有できないものを介しての、見えない「繋がり」のようなものの可能性が兆してはいないか。コロナ禍が私たち一人ひとりにこのような当たり前のことを思い出させたのなら、それは多分よいことだ。哲学者はこのように、「一人」呟くのだった。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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