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【時の話題:生殖医療の現在】
生殖医療と倫理

2021/02/18

  • 奈良 雅俊(なら まさとし)

    慶應義塾大学文学部倫理学専攻教授

世界初の体外受精児がイギリスで1978年に誕生して以来、半世紀に満たない間に急速な発展を遂げたのが、生殖医療の領域である。この発展を支えたのが、生殖補助技術(Assisted Reproductive Technology; ART)の開発と導入であった。自然の営みであった生命の誕生に人間が介入できるようになったことは、生命への介入はどこまで許されるのかという問題を提起した。“できること”の中で“許されること”を定めるルールが、生殖医療の倫理である。

現在の日本における生殖医療の倫理の基本原則は、第1に、「生殖をめぐる意志決定においては個人の自由を尊重する」というものである。この原則の根拠は、女性やカップルのリプロダクティブ・ヘルス/ライツ(Reproductive Health/Rights :性と生殖に関する健康と権利)の保障や「患者の権利」の尊重に存するが、さらに遡るならば、19世紀以来、西欧社会で受け継がれてきた自由主義にある。自由主義によれば、個人には自分の精神や身体に関して自己決定の権利がある。注意すべきは、このような個人の自由は無制限ではなく、「他人に対する危害」が及ぶ場合には、社会がそれを制限することができるという点である。

第2の基本原則は、「生まれてくる子の福祉を優先する」というものである。日本においてARTを用いた医療は、日本産科婦人科学会の会告に準拠し、医師の自主規制の下に提供されている。たとえば第三者から精子・卵子ともに提供を受け体外受精させた胚を利用して、子どもをもつことも技術的には可能である。しかし、会告は胚提供による生殖医療や代理出産(代理懐胎)を禁じている。その理由は、胚提供による生殖には、法的な親子関係を不明確にするだけでなく、子が発達過程においてアイデンティティーの確立に困難をきたし、障害をもって生まれた場合には安定した養育環境を奪われるなど、子の福祉に悪影響を及ぼすおそれがあるからである。

第3の基本原則は、「人の尊厳の保護」である。第三者に妊娠・出産を代理してもらうことは技術的に可能であるが、代理出産においては、妊娠・出産にともなう身体的・精神的負担を女性に課すことから、子どもをもつための手段としてだけ女性が扱われるおそれがある。人をモノ扱いすることは人間性への冒瀆であり、たとえ本人が同意していても社会的には認められない。このように、ARTの中には、患者だけでなく、生まれてくる子、家族、社会全体にとって大きな問題を生み出すものがあり、そのようなARTは不妊治療の範囲を超えるとみなされる。

生殖医療(不妊治療)に関連して、倫理や社会の観点から見て大きな問題を提起するのが出生前に行われる遺伝学的検査である。具体的には、母体血清マーカー検査、羊水検査、研究段階のいわゆる新型出生前診断(NIPT)である。母体血や羊水に含まれる胎児由来の細胞を使って行われるこれらの検査によって診断できるのは、遺伝子変異や染色体異常である。

これらの検査の倫理的問題は、異常が発見された場合の対応である。検査の結果が悪かった場合に、中絶を選択するカップルが非常に多い。背景には、生まれてくる子どもが不幸である、障害児や遺伝病患者を育てることは家族にとって負担になる、という考えがある。しかし、障害を理由にして胎児の出生を妨げることは、障害者の生きる権利を否定し差別を助長するおそれがある。出生前遺伝学的検査には、妊婦、生まれてくる子と家族だけでなく、遺伝病患者、障害者と障害を受け入れる社会も「当事者」として関わっているのである。

生殖医療には、医学的な側面だけでなく、倫理的・法的・社会的側面がある。精子や卵子の提供によって生まれてきた子に、自らの「出自を知る権利」を認めるべきだろうか、それとも提供者のプライバシーを保護すべきだろうか。先天的あるいは後天的な疾患により他の方法によっては妊娠・出産できない女性、あるいはLGBTなど性的少数者が、卵子や胚の提供を受けて、また代理出産を依頼して子どもをもつことは許されないのだろうか。さらに、そう遠くない将来、映画『ガタカ』(1997)のように、さまざまなARTを使って親が自分の望む性質をもつ子どもをデザインすることが可能になるとしたら、それは許されることなのだろうか。

生殖医療の倫理は、社会の変化、診断法や治療法の進歩、海外の状況によって変わる可能性がある。しかし、重要なのは、社会のすべての人が、生殖という人間の基本的な営みについてあらためて考えてみることである。考える際に大事なことは2つある。第1に、生殖医療に関与しているさまざまな者の立場から考えること。第2に、人間の幸福とは何か、親であることは幸福にどう寄与するのか、家族とは何か、人の生命はいつから始まるのか、といった根本的な問題を考えることである。倫理の問題に数学のような「正解」はない。「多事争論」の中から、私たちにとっての答えを見つけていくしかないのである。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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