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【時の話題:香港── 一国二制度のゆくえ】
なぜ国家安全法を制定するのか

2020/10/20

  • 加茂 具樹(かも ともき)

    慶應義塾大学総合政策学部教授

香港国家安全維持法の立法とこれに対する国際社会の批判は、台頭する権威主義とこれを押し返そうとするリベラル民主主義の構図で捉えられている。

新型コロナウイルスのパンデミックの下で、中国指導部による強硬な行動の選択は国際秩序の緊張を生んでいる。

なぜ現指導部は国家安全法を立法したのか。この問いは、なぜ指導部は国際社会との対立を厭わない行動を選択するのかという問いの射程の中にある。

指導部が国家安全法の立法を決めたのは、パンデミックよりも前のことである。昨年10月に開催した共産党の会議は、同法の立法を含む香港に対する管制強化を決定した。香港の憲法である香港基本法第23条は、香港の国家安全を維持するための立法が必要だと明記していたが、過去20年余りのあいだ実現しなかった。今回の立法には「香港が立法しないのであれば北京が立法する」という指導部の強い決意が示されている。当時、この決定は、指導部が再度、基本法第23条に基づく立法に着手するよう強く指示したものだと理解された。しかし指導部は予想を超えた行動を選択したのである。

なにがこの判断を促したのか。指導部の国際秩序に対する不安全感である。

1990年代初めに共産党は、社会主義と市場経済は矛盾しないと確認して以来、「発展こそが堅い道理」という開発主義を掲げ、これに必要な安定した国内外の環境の構築を共産党による統治が保障する「改革開放」路線を示した。中国外交の目的は中国の発展に有利な国際環境を整えることだった。

歴代の指導部は、冷戦終結後以来、自らが既存の国際秩序に遅れて参加した存在であると理解し、不利な立場に置かれていると考えてきた。つまり中国の発展に有利な国際環境を構築することは、既存の国際秩序に中国が適応することであると理解し、中国語で言う不安全感を抱きながら、注意深く、慎重に国際秩序を観察してきた。

しかし、2015年ごろに指導部は外交姿勢を改めた。中国の発展に有利な国際環境を構築する取組を「適応」から、既存の国際秩序に自らの要求を「埋め込む」ことへと変えたのである。

2015年に起草され、翌年に策定された「第13次5カ年計画(2016年〜2020年)に「制度に埋め込まれたディスコース・パワー」という概念が登場した。

ディスコース・パワーとは、話し手の主張の物語性を以て、相手に共感と尊敬の気持ちを抱かせ、その内容を受け入れさせるパワーだ。

制度に埋め込まれたディスコースパワーを強化するとは何か。例えば、世界銀行といった国際制度における中国の議題設定権や議決権を拡大すること、一帯一路といった中国が主導して設けた国際制度の影響力を強化し、そして既存の国際制度の改革を促す力を養うこと、そして深海底やサイバー、極地、宇宙といった新しい領域における国際制度の構築を先導すること、である。

現指導部は自らの外交路線を「中国の特色ある大国外交」と呼ぶ。公式には、「大国」とは「major country」である。しかし共産党宣伝部が発行する習近平国家主席の発言を解説する書籍は「世界の平和の問題に影響をあたえる決定的な力」と説明している。指導部の関心はパワーの拡大にある。そして、指導部が重視するパワーがこれだった。

なぜ指導部はパワー拡大を追求するのか。それは既存の国際秩序に対する不安全観を払拭するためである。もはや中国に対して軍事的侵略を試みる国家は存在しないにもかかわらず不安全感は高い。いま1つには経済発展し国力が増強した結果、自らの要求を受け入れさせる外交の手段を備えたからである。これが「大国外交」である。

指導部は、パンデミック以前から米中対立の構造が深まるなかで、「100年に1度の局面の大きな変化」という表現で流動する国際秩序に警鐘を鳴らしてきた。パワーのバランスが変化し、国際政治のアクターが共有してきたゲームのルールが変化する重大な局面の変化に国際社会があるとの認識である。

習近平は「100年に1度の局面の大きな変化」の下で発生するリスクを未然に防ぎ、危機をチャンスに変えるための能動的に行動する必要性を指摘してきた。その方針を共産党の総意として確認したのが、香港に対する管制強化を決定した昨年10月の会議であった。つまり香港政策をめぐる指導部の決断は、香港が無政府状態の一歩直前まで追い込まれたことだけが動機ではない。「100年に1度の局面の大きな変化」への備えの一環と理解すべきだ。こうした意識は、指導部の政策決定の優先順位を、国際的なレピュテーションよりも国家の安全を優先させた。

現指導部は、大国意識をもちながらも、国際社会に対する不安全感を強めている。中国は米中対立の長期化を想定し、国内に「持久戦」を唱える。修正主義的な行動は長期的な傾向といえる。日本はこうした中国の対外行動の動機を把握し、向き合う必要がある。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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