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【時の話題:ブレグジットの後で】
英国とEUの関係はこれからどう変化していくのか

2020/05/22

  • 小林 規一(こばやし のりかず)

    NEC Europe, General Manager・塾員

私は1999年からロンドンに住み、日系企業の欧州統括本社に勤めていますが英国社会、経済の大きな変化のうねりを経験した20年間でした。当初は伝統を感じる整然とした街並みや市内に数多くある美しい公園、そして洒落た老夫婦がクラシックカーで颯爽と運転する姿を見て、日本とは比較にならない社会の豊かさを実感すると同時にホームレスも多く見かけました。それが2000年代に入るとグローバルな人、モノ、金の自由な移動が人々の生活や経済を豊かにするという空気が高まり、外国人や美味しいレストランが増える一方で住宅価格が跳ね上がり道路では高級車を多く見るようになりました。しかしこのバブル的な空気は2016年の国民投票で一変しました。投票日の翌日に4%の僅差でEU離脱派が勝利したのを知って世界が愕然としたのはご存じの通りです。

ブレグジットは保守的で中庸と言われる英国民が悩んだ末に新たな国のあり方を求めて変化を選択したことを示しています。EUは欧州域内での人、モノの自由な移動を通じ英国のグローバル化を加速させ、特に金融に強いロンドンを世界的に豊かな国際都市に押し上げました。他方、経済成長から取り残されたと感じる地方都市の多くの人々が失業や移民等の問題の責任をEUに押し付けました。メディアが喧伝した地方の保守的な人々がEU離脱を支持する一方で、都会の人々や若者はEU残留を望むという社会的分断の底流には急速に進んだ英国社会、経済のグローバル化への反動があると思います。

こうした社会的分断の中で英議会が結論を出すのに数年の時間を要したのはグローバル化の是非に対する考え方が国民を2分したことに加えEUが単なる経済的な枠組みではないからです。EUは地域統合による恒久的平和と繁栄のビジョンから出発しており、その理想主義的な理念を支持するか否かは個人的な信条に依存することが議論を長引かせた大きな要因だと思います。EU離脱の是非について欧州の友人や同僚から様々な意見を聞いた中で一番印象に残っているのは国民投票直前に生粋の英国人でオックスフォード大学卒の弁護士の友人の意見でした。

「頭(Head)ではEU残留が望ましいと思うが心(Heart)では離脱して国家主権を取り戻すのが英国の長期的な利益になるという相反する思いがあり大変迷うが、英国人として自分の心情は無視できない」。その後の3年半にも及ぶ政治の混迷の過程で多くの人々が「もううんざりだ。英国民として恥ずかしい。早く方向を決めたい」と感じていた中、ジョンソン首相の強いリーダーシップの下で早期EU離脱による新たな国づくりを掲げた保守党が、EU残留派の票を統一ビジョンで結集できなかった労働党他の野党に昨年末の総選挙で大勝しました。一方、多くの企業はこの数年間にEU離脱を前提に、拠点やサプライチェーンの見直し等に既に取り組んでおり、今の空気はLet’s get on!(さっさと前に進もう)です。

ブレグジットは「英国とEUとの不幸な離婚劇」と言えます。英国の人々は単一市場の経済メリットを主目的にEUに加盟(結婚)しました。英国人に聞くと通貨や政治統合を支持する人は殆どいません。2009年のリスボン条約でEUを代表する大統領や外務大臣的なポストが新設され欧州の地域統合の政治的な側面が濃くなると、EUの枠組みの中でグローバル化を享受してきた英国の人々も次第にビジネス(Head)と国家主権保持(Heart)の間で葛藤が増してきたのではないでしょうか。離脱後の貿易交渉が難航して強い貿易依存関係を持つEUとのモノの流れが滞れば経済に悪影響が出るのは不可避です。他方、英国は世界第5位のGDPを持つ経済大国としてEU、特に輸出大国ドイツの大顧客であり離脱による混乱は双方にとって賢明ではありません。しかし政治的な側面では英国が離脱して経済的に成功すると他の国も離婚(EU離脱)を言い出すリスクが出てきます。離婚した相手を経済的には必要とするが(Head)理念は共有できない(Heart)というアンビバレントな関係を上手く維持するには「大人の付き合い方」が必要ですが、長い歴史を共有する欧州の人々はその知恵と経験を持っていると思います。

こうした背景を踏まえるとブレグジットは日本企業に事業環境変化のリスクと同時に新たなビジネスチャンスをもたらすと私は考えています。近年、米中の対立構造激化を含めた世界秩序の大きなパラダイム変化が顕在化していますが、この新たな潮流の中で英国が従来EUに大きく依存していた貿易相手を米国や日本、インドを含む旧英連邦諸国等に切り替えていく可能性は十分にあります。欧州の社会、経済に現在大きな混乱をもたらしている新型コロナウイルスはEUとの貿易交渉締結を遅らせるかもしれませんが、日々激変する世界情勢の中で自らの進路を決める決断をした英国は、EUを含む世界の国々との新たな相互依存関係を再構築しつつグローバル化の荒波をしたたかに乗り越えていくと信じています。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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