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【時の話題:アートの価値・再考】
アートの価値、表現の自由

2020/03/16

  • 南條 史生(なんじょう ふみお)

    森美術館特別顧問、美術評論家、キュレーター・塾員

昨年、「アートのお値段」(The Price of Everything)というアメリカ映画が公開された。この映画は「現代美術にはとんでもなく値段の高いものがあるが、誰がどうやって値付けしているのか」という素朴な疑問から出発したドキュメンタリーである。インタビューに応えるのは、現役のアーティスト、コレクター、オークショニア、ギャラリスト、美術評論家たちだ。

映画には、ジェフ・クーンズのように市場価格を重視する人から、ゲルハルト・リヒターのように無関心を装う作家、ラリー・プーンズのように市場価格には興味がないと言いきる作家など色々と登場する。良い作品は高値であるべきと信じるオークショニアや、ギャラリストも登場する。アメリカのように商業的な国では、価格が作品の価値と直結しているように見える。またアジアのアート新興国でも、市場価格が美術品の価値だと考える人は多い。

一方、ゴッホの例を見れば、彼の存命中には弟のテオ以外に彼の作品を認める人はいなかった。しかし今日、ゴッホの作品は最も高価な美術品の1つである。つまり、生前の市場価格はほぼゼロだったが、100年後にその価値が理解され、市場価格が本来の価値に追いついたとみることができる。

アートの価値の不思議さは「ダイアモンドは高いから価値がある」というギッフェンのダイアモンド・エフェクトの事例の典型にもなる。さらに、ブランディング・ビジネスの論理とその心理学とも関係があるだろう。

日本では、アートの価値が単純に市場価値ではないという認識は、一般の人たちに意外と広く共有されているように思われる。それは、日本が長い歴史を持ち、茶道や浮世絵や多くの骨董品が身近にあり、なんとなく市場価格と作品の価値とは違うということを感じているからではないだろうか。

ところで昨年は、3年に1回開催される大型の国際展「あいちトリエンナーレ」が表現の自由をめぐって話題になった。これは、あるグループが「表現の不自由展・その後」と題して、過去に主催者などによって出品規制された作品を集めた展覧会を再現したものだ。一番問題になったのは、慰安婦の像と、天皇陛下の写真を焼く場面が含まれる映像作品であった。開幕直後から、こうした出品物を問題視する人々から脅迫電話などが相次ぎ、安全のためという理由で、開幕2日後に主催者(愛知県など)によってこのセクションが閉鎖されたのである。その後、状況が落ちついたとみて、再開された。

この事件の居心地の悪さは、慰安婦問題のプロパガンダに使われた少女像を美術品として展示することに対する違和感から来ていたように思われる。これに一般的な国民感情が加わると、単純に表現の自由を守ろうというスローガンに同調しがたい心境になる人が多かったのではないか。

だいたい、戦争などが起こると政府の主張を広めるためのプロパガンダアートが制作される。太平洋戦争時の日本でも多数の戦争画が残されたが、それは通常の美術作品と同等には扱えない。中国でも毛沢東の文化大革命期に多数のプロパガンダ絵画が制作された。あいちトリエンナーレに出品された慰安婦像もまた、隣国の政治的主張を表象するために作られた物で、これを美術作品として中立的に扱うには違和感がある(天皇陛下の写真を焼く作品は、富山県立近代美術館における別の展覧会から発した長い背景があるので、ここでは論じない)。

山崎正和氏は、『読売新聞』2019年12月2日に発表した論考の中で、このグループは表現と主張を取り違えているのではないか、と論じている。つまるところ、表現、主張、作品の価値といった基準はそれぞれ意味が違うことを認識すべきではないか。しかし、では表現として守るべきものは何であると定義すればよいのか。

さて、表現の自由がある国とは、それがどんな作品であっても、平等に展示させる社会でなければならない。政府の方針とは異なる内容を持つ作品でも、政府が展示を妨げないことが、その定義となる。となると、ここで慰安婦の展示を規制してはならないということでもある。私は2019年には美術評論家連盟の会長であったので、この問題に対して抗議声明を発表した。

事を複雑にしたのは、その後、文化庁があいちトリエンナーレに対する補助金をキャンセルし、オーストリアで開催された日本の現代美術展「JAPAN UNLIMITED」について、在オーストリア日本大使館が公認を取り消したことである。このことによって、問題を愛知県のレベルから国の問題に格上げしてしまった。その結果、長年「表現の自由な国」というイメージのあった日本が「検閲する国」に変わってしまったのだ。

もちろん、日本を含めて完全に表現が自由な国などない。しかし今後、日本の国際展が外国の作家を招待した時に、彼らは、自分の作品が検閲される 可能性を危惧するようになる。そのダメージは大きい。

慰安婦像というプロパガンダ展示物が壊してしまったのは、「表現が自由な国 日本」というイメージだったのではないだろうか。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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