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【時の話題:平成を振り返る】
平成期に日本は右傾化したのか

2019/04/22

  • 片山 杜秀(かたやま もりひで)

    慶應義塾大学法学部教授

たとえば北方領土。戦後日本のナショナリズムの根幹に触れる問題であり続けてきた。愛国党の赤尾敏ら、戦後右翼の指導者たちも、北方領土返還を訴え続けた。そこには共産主義国家、ソ連への強い不信感も絡む。共産主義と天皇の存在が両立不可という認識もあった。ソ連に比べればアメリカの方がましだ。自身が共和国であるにもかかわらず、天皇を否定しなかったから。戦後に右翼の多数は親米派となった。天皇を脅かし、国体を壊す可能性を有するソ連を憎んだ。北方領土はそんな日ソ関係のフロントであった。

しかも、それはもちろん国境問題だ。縄張りを巡るトラブルは、人間に限らず動物全般を本気にさせる。国境争いとは、ナショナリズムを焚き付ける最大の燃料である。

だが、平成末期の日本ナショナリズムとそれに裏打ちされているはずの外交の様相は、戦後長年の常識を踏み外している。ソ連の後継国家、ロシアとの交渉において、安倍政権の北方領土問題に対するスタンスは、必ずしも明瞭でないだろう。領土問題で大きく妥協しても、平和条約を締結したい。そのような姿勢にも見える。四島戻るか戻らぬかの二者択一のゼロサムゲームとして主には語られてきた案件が、1ミリ動くか動かないかという、かなりグラデーションのある、ほとんど文学的レトリックの問題に、いつの間にかすり替わっている印象を受ける。

戦後の長い経緯を踏まえれば、歴史のお膳をひっくり返すかのような外交姿勢とも言える。日本社会にハチの巣をつつくが如き大騒ぎを巻き起こしても不思議ではない。しかるに、今や世間の興味は、安倍首相がプーチン大統領と対等に張り合えているかにばかり向けられているように見える。領土問題は実はもう脇役なのかもしれない。安倍首相はプーチン大統領と◯◯回会談しているから凄い! 主役はそちらに化けている。

もうひとつ、たとえば大嘗祭(だいじょうさい)問題。天皇と宗教の問題は、これまた戦後日本のナショナリズムの大テーマであり続けてきた。そもそも近代日本は、戊辰戦争や西南戦争までは戦国時代同様の感覚で内戦も当たり前と思ってきたこの国の民を、現人神(あら ひとがみ)としての天皇という装置を用いて一枚岩に束ね得た。現人神は神なのだから宗教的存在であろう。そこで機能したのは国家神道であり、皇室に付随する様々な神道的儀礼であった。そのうち最大の儀礼は、新天皇の即位に伴う大嘗祭だろう。

しかし、敗戦によって招来された戦後民主主義は、天皇の神性を否定し、代わりに人間天皇と象徴天皇をセットにした、新しい天皇像を希求した。天皇自らがその路線に寄り添った。それでも戦後なお、大嘗祭は国費を用いて行う国家儀礼として生き残った。

むろん、右翼から見れば、宗教性を除(の)けた単なる人間である象徴天皇というイメージは頼りないものだった。そうした思想は端的には三島由紀夫の『英霊の聲』の「などてすめろぎは人間となりたまひし」なるフレーズに集約されている。天皇はどんどん人になるのか、それとも神に戻るのか。戦後右翼の思想的主題としては、北方領土よりもはるかに重大。その意味で、大嘗祭の今後は、右翼にとって最大級の意味を持つものであり続けてきた。

とすれば、秋篠宮文仁親王が平成30年11月に大嘗祭を天皇家の私的儀礼として国費を投入せずに行うべきだと公に発言したことは、右翼陣営へのとてつもない爆裂弾のはずであった。皇室自らが戦後民主主義と運命を共にし、復古への回路を積極的に遮断する意思表明をなしたと見なせば、近代日本のナショナリズムと天皇と宗教の根底に突き刺さってくる。これまたハチの巣をつついたような大騒ぎをこの国に現出させてもよかった。

ところが現実はどうか。国民的議論と呼べるほどのものは、何一つ喚起されなかったのではないか。大嘗祭は私費か国費か。三島由紀夫がもう一度切腹するくらいの大問題がもはやさしたる関心を呼ばないのが、この国である。

平成に日本は右傾化したのだろうか。旧来の意味に従えば、全くそうではあるまい。戦後日本の右翼的心情は、敗戦への悔恨や怨念を根っこにしていた。敗戦のどさくさに北方領土を奪われ、天皇を神から人に切り下げられてしまった。敗戦から生まれた恨みつらみなくして戦後右翼は成り立たなかった。

だが、それは結局、世代論である。昭和20年に20歳の人は平成31年に94歳。平成の期間のうちに戦後右翼は衰え滅んだと言っても過言ではあるまい。

その代わりに平成は新しい右翼を生んだ。敗戦を悔悟するのではなく、高度成長期の逞しい日本を懐旧し、今日になお我が国の強いプレゼンスを期待する人々が平成の右翼になったのだ。彼らの興味は、北方領土や現人神天皇を巡る歴史的経緯ではなく、今日も世界に立ち向かい、強い日本を取り戻すと主張する指導者のパフォーマンスへの憧憬であり、戦後日本の奇跡の繁栄を回想し疑似体験させるオリンピックや万博への期待である。

平成の日本は右傾化したというよりも、単に世代交代し、右翼の概念を変質させたのであろう。

敗戦は遠くなりにけり。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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