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【時の話題:平成を振り返る】
昭和元禄をすぎ「平成宝永」

2019/04/22

  • 磯田 道史(いそだ みちふみ)

    国際日本文化研究センター准教授・塾員

昭和を元禄とすれば、平成は宝永にあたる。江戸時代の元号にたとえれば、の話である。かつて、経済評論家の堺屋太一さんが「峠の時代」として、昭和を元禄になぞらえた。ただ、平成が終わろうとする今、また堺屋さんもいなくなった今、冷静になって考えてみると、日本史上、昭和が頂点の時代であって、そのあとの時代は下り坂になる、と、予言されていたようなものである。

たしかに、経済も人口も、そうだったかもしれない。御承知のように、平成に入って、この国のバブル経済は完全にはじけきって超低成長となったし、人口も減り始めた。そのうえ、阪神淡路大震災、東日本大震災があり、しばらく見かけなかった一級河川があふれて洪水になる時代がやってきた。

これに似た時代が、江戸時代でいえば、元禄のあとの宝永である。天災とりわけ地震の多い時代であった。そもそも、この元禄年号を改めるきっかけ自体が地震であった。元禄16(1703)年に、関東で大地震が起きた。相模トラフが動いた元禄関東地震であって、これの再来が大正の関東大震災であるが、地震の規模自体は、元禄関東地震のほうがずっと大きかった。京都のまわりでなく、関東地方、江戸などが地震で相当にやられても、元号はなかなか変えられてこなかったが、幕府の力が強くなっていたことと、地震の被害が大きかったことで、関東の地震でも元号が変わって、宝永になった。

宝永になったら、地震の活動期なものだから、今度は南海トラフが動いた。宝永4(1707)年の宝永地震である。地震を感じた範囲は長さで800キロちかくになり、まさに日本中が揺れた。揺れただけでなく、地震から49日目には、富士山まで噴火した。富士山の横っ腹に噴火口ができて、宝永山なるものができて、山の形がかわってしまった。

考えてみれば、平成は、この宝永に似ている。第1、江戸時代の人口成長は宝永のあたりにきて、一度、とまった。17世紀に新田開発などが進んで、食料を増産できたため、人口が2倍近くにまで増えた。ところが宝永地震で低地に津波がきて、とくに干拓による新田開発が限界にきていることが、江戸時代の人にも認識されるようになったらしい。そんなことで、宝永頃に人口が頭打ちになって、その後、100年ちょっとの間、日本の人口はほとんど増えなかった。米麦二毛作ができて温暖な西南日本は増えたが、気候が寒い東北日本はむしろ減った。歴史人口学の速水融さんが、その内情を明らかにされたとおりである。

平成日本もそうで、総人口も労働力人口も減り始めた。GDP(国内総生産)も米国に次いで2位だったものが、中国に追い抜かれ、1人当たりGDPでも、順位を落としつつある。21世紀半ばには、中国のGDPは日本の7倍、インドのGDPは日本の4倍程度になるとの予測も聞くから、世界はカラ・テンジクの時代に先祖がえりしつつあるのだろう。

そして平成は天災が多かった。ここが一番、宝永に似ている。昭和は戦災、平成は天災といいたくなる。平成7(1995)年1月17日早朝に起きた阪神淡路大震災の時のことは、よく憶えている。その時分は、今ほど携帯電話が普及しているわけでもなく、情報通信が進んでいなかった。神戸を中心として震災が起きたその日の昼まで、東京では事態が正しく認識されていなかった。国会関係者も多くは、昼まで通常の行動であったし、総理官邸も今から考えれば「無人」といわれそうなほど早朝には人がいなかった。

大学院生にとっては、試験期間のレポート提出の時期であったから、その日、私は、徹夜でレポートを仕上げた眠い目をこすって、三田の山へ行き、それを提出しようとしていた。三田キャンパスにレポートをもっていったら、「神戸が大地震で高速道路の高架がひっくりかえっている」という。私が「困った。新幹線で来月、岡山へ帰省できない」といったら、とある教授が「磯田君、そのころには復旧しているよ」という。「高速道路の高架が転倒しているなら、新幹線の高架もきっと落ちている。復旧には3カ月以上かかるはずだ」と言い返したかったが、立場の弱い大学院生なので黙っていたのを憶えている。

慶應義塾の偉い学者も、こんなふうに判断をあやまるほど、その頃の日本人は大災害がくるとは思っておらず、呑気なものであった。実際、2月になっても、新幹線は復旧せず、私は震災で破壊された神戸の街をバスと徒歩で通過し、なんとか岡山に帰った。

「昭和元禄、平成宝永」、さて、次はどのような時代か。宝永の次は、正徳という元号で、新井白石という学者の知性が政治に大きく影響した時代であった。新井白石の政治には賛否両論あるが、時間的にも空間的にも良く調べ、広く知識を活用して政策をすすめたのは確かである。国が下り坂になって、災害が続く今日、慶應義塾の知性にも果たすべき役割もあるかとも思う。

私は福澤諭吉先生の実学主義が好きである。社会が困っていたら、それを解決する手段を、学問的に考える。どんな時代になっても、この当たり前のことを、みんなで着々と、やっていくことが大切だと考える。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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