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【時の話題:文化財の保護と活用】
世界遺産制度における国家戦略としての文化遺産マネジメント

2018/08/17

  • 岡田 真弓(おかだ まゆみ)

    北海道大学創成研究機構特任助教・塾員

1972年、人類にとって重要な文化遺産を保護する国際的な支援体制を確立するため、ユネスコにおいて「世界遺産条約」が採択された。世界遺産に登録されたものは、その保有国を代表する文化遺産として認知され、その学術的・審美的価値は多くの人々の知るところとなる。世界遺産制度は、危機に瀕した文化遺産を保護する役割も果たしているが、むしろ現在では、登録後の観光客の増加による経済効果や、世界遺産を核とした地域振興などの効果を期待されている。日本の文化財政策でも、文化遺産を継承してきた地域社会との関係を重視した文化遺産の積極的活用の機運が高まっているが、背景にこうした世界遺産の動向があることは見落とせない。

同条約の締約国の多くは、自国の法制度で保護している文化遺産を世界遺産に推薦するが、ユネスコという国際舞台において、世界遺産への登録を契機として、その文化遺産を保有している国家の認知度を高めるとともに、国内の文化遺産マネジメントの強化を試みる国家もある。パレスチナである。

パレスチナ周辺地域は、古来より多様な民族、文化、宗教の交流地点として栄えたため、そこには世界史的に重要な出来事と関係の深い様々な文化遺産がある。また、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の揺籃の地でもあり、それらの聖地が多数所在する。ところが、シオニズム運動を経て、1948年にこの地にイスラエルの国家樹立が宣言されると、移住してきたユダヤ民族とそれ以前から暮らしていたアラブ住民(パレスチナ人)との間で抗争が頻発し、激しい武力衝突をともなう深刻な対立に発展していった。1993年のオスロ合意後、パレスチナ自治政府がヨルダン川西岸とガザ地区を統治しているものの、依然としてイスラエル軍の支配が続く地域もある。

国連は、パレスチナの正式な国家としての加盟を認めていないが(現在はオブザーバー国家)、ユネスコは2011年に正式な国家として加盟を認めた。当然、イスラエルと親イスラエル派のアメリカは猛反発し、報復としてイスラエルは入植地拡大を、アメリカはユネスコへの分担金の拠出停止を表明した。イスラエルは、この地にユダヤ民族の国家を建設した歴史的正統性を明らかにするため、とりわけ旧約聖書やユダヤ教の成立に関わりの深い文化遺産を熱心に保護してきた。他方、自治区における主権を確立したいパレスチナもまた、文化遺産が国民のアイデンティティの源泉となり、経済効果をもたらすことを認識しているため、自治区内の文化遺産の保有を主張する。2011年のパレスチナのユネスコ加盟は、こうした対立を世界遺産制度の下に顕在化させることとなった。

パレスチナはこれまでに3件の登録を成功させているが、いずれも通常の審査過程とは異なる緊急的登録推薦によって世界遺産に登録された。推薦案件を事前審査する諮問機関イコモスが登録不適当を勧告したにも拘わらず、世界遺産委員会の投票の結果、登録となったケースもある。ユネスコが推薦国の文化遺産を世界遺産に登録することは、すなわち、推薦国によるその文化遺産の保有を国際的に承認することである。上述のような対立構造を抱える両国にあって、このことはイスラエルを刺激し、アメリカもこれら3件の登録が政治的であると非難している。

とはいえ、パレスチナにもこうした政治的手段に頼らざるを得ない事情がある。パレスチナの文化遺産は、基本的に自治政府の古物・文化遺産局が管理している。しかし、自治区内にはイスラエル軍が文民統制と安全保障を管轄する地域があり、そこにある文化遺産はイスラエルの所管となっている。さらにイスラエルは、ヨルダン川西岸にある遺跡の一部を国立公園に指定し、実質的にそれらを保有している。パレスチナの将来的な世界遺産登録の推薦候補にも、イスラエルが国立公園に指定した地域と重複するものがある。パレスチナの世界遺産登録の関係者には、国際社会で文化遺産の保有国が確定されなければ、パレスチナの文化遺産マネジメントにおける主権を確立できないという根強い不安がある。

各地の文化遺産の多くは、近代国家成立の遥か以前に創出され、それらを創り出したのは、現在の国家ではなく、当時その地域に暮らしていた文化の担い手たちである。世界遺産制度は、まさに文化遺産が有する国家間の境界を超越した歴史的価値をグローバルに保護するために誕生した。しかし、何に「普遍的価値」を見出し、何を「わたしたちの文化遺産」とみなすかは、今日の国家の思惑や今を生きる人々のアイデンティティと直結するため、容易に政治問題化しやすい。パレスチナとイスラエルの事例は少々特異かもしれないが、文化遺産と所在地域との結びつきを強め、文化遺産の積極的活用に動き出す日本も、文化遺産が有する過去と現在をめぐる政治性に向き合うことを忘れてはならない。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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