【福澤諭吉をめぐる人々】
山口仙之助
2025/11/20
仙之助のもてなしの心
仙之助は、ホテルの経営者であると同時に、自らも妻久子と共に外国人旅行者へのサービスに努め、自ら案内人となり、金銭の交換、旅行上の注意、食事や宿泊などについて助言を行った。また、客の御出入の挨拶や、路程の相談、着物に草履姿で外国人旅行者を駅まで出迎えに行ったりと、客の満足度を上げることに心を砕いていた。妻久子は養父山口粂蔵の次女で、英語に堪能であり、ホテル創業以来仙之助と苦楽を共にし、食材の買い出しを始め常に家庭的な親切な心を持って接客にあたり、体調を崩した外国人旅行者が仙之助夫婦揃っての手厚い看病により回復したとの記録もある。
仙之助が描いたビジョンが、単なる理想論で終わらなかったことは、当時の外国人旅行者たちが残した記録から明らかである。その当時の記録がホテルの60年史である『回顧60年』に記されている。例えば、創業間もない明治14(1881)年、宿泊した英人Mr.Atthur H.Crow は、富士屋ホテルは日本人が所有しているが、ヨーロッパスタイルで運営・設備されていると記録に残している。
しかし、記録を見ていくと、富士屋ホテルが外国人専用のホテル以上の役割を果たしていたことが分かる。例えば、日本学者のチェンバレンは、ここを愛好し、ホテルの敷地の一角に自身の書庫を持つほどであった。言葉や文化の壁を超えて快適さを提供し、人々が出会う国際的な空間であり、訪れた人たちが日本の自然美や文化に触れながら、心から寛ぐことのできる異文化交流の重要な拠点としての役割も担っていった。このような卓越した評判は、仙之助の経験の積み重ねの上にあり、また、福澤の先見の明があったと言っても過言ではない。
福澤諭吉からの書簡
仙之助と福澤の交流はその後も続いたが、福澤が仙之助に強い信頼を寄せることが、明治22(1889)年4月29日付で福澤が仙之助に宛てた一通の書簡からわかる。
春暖の好時節、益(ますます)ご清安拝賀奉る。陳(のぶれ)ば今回ミッシスナップ並びに令息、箱根見物として、二、三泊の積りにて罷り出で候については、百事宜しくお世話せられ遣わしたく、実は倅共同道致すべく用意のところ、よんどころ無く差支え出来能わずその義。本人は日本語も不十分にて、困却の場合もこれ有るべく、何分にもお含みご周旋下さるべく候。右願い用のみ申し上げたく、匆々(そうそう)この如く御座候。頓首。
諭吉
四月廿九日
山口仙之助様 几下
この書簡では、アーサー・メイ・ナップの夫人とその子供が箱根を訪れるにあたり、その世話を全面的に仙之助に依頼している。特に「本人は日本語も不十分にて、困却の場合もこれ有るべく」と案じ、「何分にもお含みご周旋下さるべく候」と心からの配慮を求めている点は、福澤が仙之助の国際的な対応能力と人格に絶大な信頼を寄せ、富士屋ホテルを日本の文明開化を体現するに足る場所と認めていたことがわかる部分である。
この一通の書簡が象徴するような日本の国際化の指導者層からの深い信頼こそが、仙之助の事業をさらに発展させ、彼の歴史的評価を不動のものとする大きな要因となったのである。
なお、この書簡の2年後、仙之助は今日に残る本館を建設したが、その際には、燈火による火災の危険を案じて、火力発電を導入して全館を点灯した。その後、川の水流を利用した水力発電に切り替え、更には、宮ノ下水力電気合資会社を創立し、周辺各村に電力を供給した。仙之助の活動は、ホテル事業のみならず、箱根の街づくりへと広がっていったのである。
現代へ繋いだ遺産
富士屋ホテルは、日本の「おもてなし」の精神を、世界中の人々が理解し、享受できる形へと昇華させる画期的な試みであった。それは、今日の日本のインバウンド観光の根幹をなす「質の高いサービス」の原型を築いたと言っても過言ではない。彼の功績の核心は、異文化への深い理解に基づき、日本と世界を結ぶ信頼の架け橋を、ホスピタリティという形で築いた点にある。
はじめに触れたように、現代の箱根は世界的な観光地として賑わいを見せている。福澤は、当時既にそのような姿を期待していた。明治24年6月18日の時事新報社説「外人を歓迎すべし」では、「仏京巴里が人間の楽境なれば、我日本国は世界の遊園にして」、日本の美術の独特の妙、山川の風景の秀麗、風俗の優美を伝え聞いた西洋の人々は、それを見に、友人や家族を伴って来遊する。そして、来遊の時には、各所にお金を散ずるだけでなく、帰国後は、日本の美を吹聴してくれると記した。そして、「外人の来遊とあれば多々ますます之(これ)を辞せず、文明交通の便利を利して更に大に国を開き、大日本国をして真に世界の遊園たらしめんこと、我輩の希望する所なり」と結んだ。この社説の中でも「箱根宮下旅店富士屋の主人山口仙之助氏の実話」として来遊の西洋人の増加傾向も紹介している。
なお、この社説の背景には前月におこった来日中のロシア皇太子の暗殺未遂事件による外国人の日本の印象の悪化と、日本人の一部にある外国人への警戒への憂慮もあった。
今日の箱根の隆盛を見る時、その源には、山口の遺産と、福澤の期待があることを思い起こしたい。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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