【福澤諭吉をめぐる人々】
山口仙之助
2025/11/20
今日の箱根は、世界中から多くの旅行者を惹きつける日本有数の国際観光地として、その名を馳せている。箱根町が発表している「令和6(2024)年箱根観光客実態調査報告書」によれば、観光客の総数は2031万人と、コロナ禍を越えて6年ぶりに2000万人の大台を突破した。中でも、外国人観光客の増加が著しく、前年比143.3%の49万3000人に達したという。インバウンド観光の活況を象徴しているとともに、箱根が持つ普遍的な魅力を示しているとも言えよう。
今日のこの繁栄の原点には、福澤諭吉をめぐる人たちがいた。福住正兄(ふくずみまさえ)と山口仙之助(やまぐちせんのすけ)(1851~1915)である。特に、今日で言うインバウンド観光の基礎を築いたのは、富士屋ホテルの創業者、山口仙之助である。
生い立ち
仙之助は、嘉永4(1851)年5月5日、武蔵国橘樹郡神奈川宿青木町(現在の横浜市神奈川区)で、漢方医師大浪昌随の五男として誕生した。その後、仙之助は10歳の時に山口粂蔵の養子となり、山口姓を名乗るようになった。浅草の小幡漢学塾で学び、外国人居留地のあった横浜で養家の商業に従事して青年期を過ごした。
彼の国際感覚を決定づけたのは、明治4(1871)年、20歳の時に渡米した経験である。訪れたサンフランシスコでの日々は、決して華々しいものではなく、労働に従事し皿洗いをしたりと苦労を重ねていくが、自身の不屈の心を育んでいた。その中で今後の日本には牧畜事業が有益であると感じ、3年間異国の地で働きながら資金を蓄えると、7頭の種牛を買い入れて帰国した。しかし、当時の日本では、牧畜事業を始めるには時期尚早と判断し、明治7年に慶應義塾に入学し、再度学問の道に進み始めた。しかし、福澤諭吉が、「氏の性質としては、今後勉強せんよりは寧ろ実業界に入りて一旗挙ぐるに適せり」(『慶應義塾名流列伝』)と教え諭し、仙之助は実業界への道に入ったのである。
仙之助は、海外での体験を通じて、西洋の生活文化や商慣習を肌で感じ取るとともに、西洋のサービス業の具体的なイメージをつかんだのであろう。この実体験こそが、後に彼を外国人向けの本格的ホテル事業へと向かわせる着想の源泉となった。
仙之助の若き日の挑戦は、一個人の冒険譚に留まるものではない。それは、開国したばかりの日本が、いかにして世界と対峙し、新たな産業を創出していくかという国家的な課題に対する、実践的な回答を模索する試みであった。彼の内に秘められた企業家精神は、この海外経験を経て確固たるものとなり、明治11(1878)年、次なる舞台である箱根でのホテル創業へと繋がっていくのである。
箱根での外国人専用ホテル開業
仙之助が箱根で外国人専用のホテル事業を立ち上げたことは、単なる商業活動に留まらず、日本の近代化と国際化を支える重要な意味を持っていた。アメリカでの経験から、帰国した仙之助は、外国人旅行者が宿泊施設に不便を感じている実情を目の当たりにする。その第一歩として、仙之助は明治11(1878)年、箱根宮ノ下温泉にあった旅館「藤屋」を買い取る。そして、これを外国人向けに改装し、「富士屋ホテル」を開業した。外国人旅行者の受け入れを念頭に、次第に客室にベッドを備えたり、バター、ミルクなどの食材を用いた西洋料理を提供するなど、当時の日本においては画期的な試みを重ねた。これが日本における本格的なリゾートホテルの先駆けとなったのである。
仙之助のビジョンは、ホテルの創業だけに留まらなかった。彼は富士屋ホテルを、単なる宿泊施設としてではなく、日本の文化や自然の魅力を世界に発信する国際的な交流拠点とすることを構想していた。この壮大なビジョンがあったからこそ、富士屋ホテルは開業後すぐに多くの外国人から高い評価を得ることになり、日本の国際化を象徴する存在へと成長していくのである。
明治維新後の日本が「文明国」であることを国際社会に示すためには、日本を訪れる外国人を適切に受け入れるためのインフラの整備が不可欠であった。湯本や塔之沢にしばしば逗留した福澤は、地域が発展するには交通の便が重要であると考え、明治6年足柄新聞に寄稿した「箱根道普請の相談」など、交通網の整備として、箱根の幹線道路開削を提言していた。福澤は「箱根山に人力車を通し、数年の後には山を砕て鉄道をも造るの企をなさん」と語り、箱根における交通インフラの革新を構想していた。そして、福住正兄らの尽力で、小田原から湯本、そして塔之沢へと交通路がつくられていった。
仙之助も、外国人旅行者の移動手段の不便さを感じ、明治20(1887)年に、私財を投じて塔之沢から宮ノ下までの道路約7kmを建設した。これにより人力車や馬車の通行を可能にした。この道路が後の国道1号線と138号線の一部となった。
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白井 敦子(しらい あつこ)
慶應義塾横浜初等部教諭