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【福澤諭吉をめぐる人々】
福住正兄

2021/01/28

福澤研究センター蔵
  • 白井 敦子(しらい あつこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

現在、箱根町は、国内有数の歴史ある温泉地であり、交通の利便性からも、国内外問わず多くの観光客が訪れる名所となっている。

2019(令和元)年、小田急線の駅などでは、箱根登山鉄道の箱根湯本強羅間開業100周年を記念したポスターが貼りだされた。このポスターには、

「拝啓 福澤諭吉先生 箱根の山に鉄道が走って100年になりました。
「箱根山に人力車を通し、数年の後には山を砕て鉄道をも造るの企をなさん」
明治の頃、箱根の未来を創造した福澤諭吉の言葉です。(後略)」

と記されていた。ほぼ100年前の大正8(1919)年6月1日、箱根山に登山鉄道が開通した。幕末から明治維新後の箱根町で、今日に繋がる交通や観光、文化などの近代化が進み始めた。福澤諭吉の助言を受け、この発展に大きく貢献したのが、福住正兄(ふくずみまさえ)(1824~1892)である。

二宮尊徳から受けた教え

福住正兄は、文政7(1824)年8月21日に、現在、神奈川県平塚市となる相模国大住郡片岡村で、名主、大沢市左衛門の五男として誕生した。幼名は政吉といった。文政10(1827)年に、南金目村の名主、森勝五郎の養子となったが、後に養父母が亡くなったことをきっかけに、実家に戻った。その後、天保元(1830)年、7歳にして儒学者である千賀桐陰から教えを受ける。天保4年から7年ないし10年まで続いた、江戸四大飢饉の1つである「天保の大飢饉」を経験し、福住は、貧困状態になった農民を助ける医者を志すようになる。

しかし、実家の父からは、「上等の医者は国を治す、中等の医者は人間を治す、下等の医者は病を治す。今、国を癒す大変な医者がいる。それが二宮先生だ。二宮先生は上医だ。人の病を治す医者になるよりも、国の病を治す医者になるべし」と、国の病を治す医者として二宮尊徳が広めた経済思想「報徳」を学ぶようにと諭された。

福住は尊徳のもとで学ぶべく、天保13年、江戸に向かったが、この時にはその目的を果たすことができず、弘化2(1845)年10月、二宮塾に入塾した。尊徳が桜町陣屋から東郷陣屋(いずれも現在の栃木県真岡市)に移住してからも、福住は尊徳と共に生活し、師の世話をしつつ、約5年間にわたり、さまざまな教えを受け、その数々のえを、『如是我聞録』として書き留めていた。福住はのちにこの記録をもとに、『二宮翁夜話』をまとめた。

尊徳が福住に諭したことの一部には、「一心の覚悟」を定めて徹底すること、「自分の身の品行を謹んで」堕とさないこと、業務の本分を誤らないことを肝に銘じておくこと、などがある。これら、尊徳との生活の中で福住が学んだことが後の福住の活動を支える礎となった。

嘉永3(1850)年10月、福住は二宮塾を退塾し、箱根湯本で江戸時代前期から代々温泉宿を営んできた福住家に養子として入り、12月に結婚、10代目九蔵を襲名した。この頃、福住家は類焼を受けた影響で再興が必要な状態にあり、福住はまず復興に取りかかった。その方法は、分度・推譲といった尊徳の報徳の教えの実践によるもので、業務内容の改善、「正直」と「安値」、貴賤の差別をしないことに努めた結果、家業は繁盛し、福住の評価もあがった。

この功績で、福住は27歳にして、湯本村名主を命じられ、荒廃した湯本村の復興と活性化を図るために尊徳からの教えを胸に活動し、尽力した。また、福住は、福住旅館に宿泊した安藤(歌川)広重に依頼して、「箱根七湯図絵」や「箱根湯本福住九蔵宅図」「七湯方角略図」など、福住旅館のみならず箱根を宣伝するための地図を浮世絵で描いてもらうこともした。

慶應元(1865)年には、福住は、復興の功績により、小田原藩から「脇差・袴着用・苗字」を許された。

維新後、福住は、この新しい時代に対応するべく、民間レベルからの「国富」の道を図ることを考える。小田原藩に学校を開き国学を興そうと建白書を提出したりするが、一方で、小田原藩、小田原県は教育改革にあたり福澤とのつながりも強かったので、自然と福澤への関心も深めていったに違いない。

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