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【福澤諭吉をめぐる人々】
福澤桃介 (下)

2025/03/27

福澤桃介(61 歳、『福澤 桃介翁伝』より)
  • 齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)

    慶應義塾横浜初等部主事

軽薄才子

明治32(1899)年、福澤桃介は北海道の木材を輸出する丸三商会を設立した。そして、神戸支店の主任に、福澤諭吉の散歩のお供で知り合って以来、弟分のようになった松永安左エ門を任命した。丸三商会は、20万円ほどの材木を中国に輸出する大口契約をとりつけたが、親戚筋の中上川彦次郎(諭吉の甥)や友人の波多野承五郎が実権を握っていた三井銀行が、「信用絶無、資産僅少」という丸三商会に対する興信所の評価をもとに取引に断りを入れてきた。資金調達先のあてにしていた三井銀行から見放され、諭吉からは「眼玉の飛出るほどの御叱りを受けた」桃介は、「非常に困って七転八倒の苦しみ」を味わい、「慶應義塾は敵であると云う風に思」うようになったという。神戸の松永のもとに向かう途中、心労からか病気を再発し、京都で入院した桃介は、何の未練もなく丸三商会を閉店した。

桃介は、自らを「軽薄才子」だと評する。その所以は、「飽きっぽくて、変化の多い性質」にある。丸三商会の閉店では、仕事を投げ出して清算は部下に任せきり。自ら熱心に設立に関わった日清紡績でも、工場の操業後しばらく苦難が続くと、桃介は3年ほどで取締役からも株主からも手を引いてしまった。さらに政界にも進出し、明治45年には選挙に当選して国会議員となり、憲政擁護運動の急先鋒として国会で政府攻撃の名演説をするが、衆議院が解散すると政界からも、とっとと身を退いてしまった。

一方、この性格が、日露戦争で株式市場が活況に沸いていたときに再開した投機には、如何なく力を発揮した。養父の諭吉はこの世になく、遠慮の要らなくなった桃介は、5年ほどで300万円(今日の数十億円相当)も儲け、「相場師」「山師」と呼ばれるようになった。桃介の勧めで株式を始めた松永が、その後の株式暴落でかえって大損して桃介に様子を尋ねると、桃介は「儲かった」と言う。世の中の活況を背に1人、暴落前に売り逃げていたのである。

電力王

株式暴落で無一文同然となった松永は、自らを見つめ直し、地道に1つの事業に身を投じる決心をした。その松永が熱を入れたのが、福博電気軌道という会社である。同社と福岡市との契約では翌年までに電車を走らせなければならない。桃介は、この会社への出資を約束していたが、いつものように気が乗らなくなって金を出し渋った。松永は、そんな桃介を根気強く説得し、自ら工事現場で陣頭指揮して、期限内の鉄道敷設を実現させた。このとき、桃介と同額を桃介名義で出資したのがアメリカ留学時代からの友、岩崎久弥であった。世間が桃介は虚業家だと冷たく言う中で、岩崎は桃介を信用して快く出資に応じた。桃介が、「生まれてから一番嬉しく感じた事」として挙げた2つ目の出来事である。

こうした松永や岩崎の姿に影響を受けたのか、このころから桃介の生きざまが大きく変わることになる。桃介は、「世間からもまた当然感謝をもって迎えられるような種類の事業を選び、これを終生の事業」にしたいと思うようになった。桃介が40歳を過ぎてのことであり、諭吉がこの世を去って数年が経っていた。

桃介が「世間から感謝してもらえる」事業として選んだのは、電力事業である。福澤諭吉は、かつて時事新報に「水力利用」と題して、「深山幽谷に埋没せる水力を導き出して人間界の実用を為さしむるの大発明」と水力発電を評価し、日本の地形は水力発電に適しているから、「世間の実業家は此天与を空しふせずして所在に製造工業を興し、以て国家を利し又一身を利するの謀を為さんこと、我輩の切に勧告する所なり」(明治26年5月13日付)と書いていた。桃介の歩みが電力事業に向かったのには、諭吉のこの論説の感化が少なからずあったであろう。

桃介は、自ら木曽川上流に足を踏み入れ、水量が豊富で落差が大きく、電力消費地に名古屋を控えるという水力発電にとっての好条件をここに見出し、木曽川発電所を設立した。桃介は、「一河川一会社主義」を主張して木曽川流域200キロメートルの水利権を獲得し、独占区域として発電所建設に着手した。誰よりも有利な地点を独占した一方、桃介が「10年早過ぎた為大変な損をした」と言うように、地域住民の理解を得ることや、洪水により工事中のダムが倒壊するなど、大掛かりな工事には、多くの苦難と犠牲が伴った。桃介は、南木曽(なぎそ)に西洋風の別荘(大洞山荘)を建てて、頻繁に現場の指揮に訪れた。桃介が視察に同伴したのが、川上貞(芸名貞奴(さだやっこ))である。貞は、「オッペケペ節」で一世を風靡した役者であり興行師の川上音二郎の妻となり、「明治大正の芸能界の美人というと、まず第1が女優川上貞奴である」(秦豊吉(はたとよきち)の評)と言われた近代女優の先駆けであった。音二郎の早世から7年後、芸能界から引退した貞が桃介に付き添うようになると、有名過ぎる2人であったがために、大いに世間を賑わせた。2人の出会いの場面は、芝居にもなって上演された。まだ幼い貞を乗せた馬が暴れだし、貞が今にも振り落とされそうになるところを馬に飛びつき救った青年が桃介であったという台本である。この話は今日も、まことしやかに語られているが、真実味に欠けており、作り話であるとの指摘もある。その真偽はともかく、山深い洋館に政財界の要人や外国人技師を招き、もてなすときに、海外公演も成功させた「マダム貞奴」は、桃介にとって欠かすことのできないパートナーであった。

桃介が在任中に稼働した木曽川の水力発電所は、大正8(1919)年完成の賤母(しずも)発電所を皮切りに、大桑、須原、桃山、読書(よみかき)、大井、落合と大正15年までに7カ所の発電所、総出力16万キロワットに及んだ。大井発電所は、日本初のダム式貯水池発電所であり、桃介は、その創始となった。読書発電所の建設資材運搬のために造られた橋は、平成年間に復元され、近代化遺産として国の重要文化財に指定された今日も桃介橋の名称で親しまれている。木曽川で得た電気は、名古屋だけでは消費しきれず、桃介は大阪送電という会社を設立して、当時電力不足に悩まされていた関西地方に電気を送った。大阪送電は、合併を繰り返し、やがて大同電力となる。その余った電気を活用して始めた鉄鋼事業を源流とする会社が、今日も「大同」の名を残す大同特殊鋼である。

桃介橋(長野県南木曽町)

桃介は、関東大震災で資金難に陥った大同電力の工事資金調達のため渡米し、日本の事業会社として初めての大掛かりな外債募集を即時売り切れという形で成功させた。大同電力は、当時、日本の五大電力と呼ばれたうちの1社となった。もう1社が、福博電気軌道に始まり、九州から関西地方、名古屋までに供給電力の範囲を拡大させた、松永の経営する東邦電力である。桃介は、「電力王」と呼ばれ、一方の松永は第二次世界大戦後に「電力の鬼」との異名をとった。

桃介は、昭和3(1928)年に実業界からの隠退を発表、友人との交遊を中心に隠居生活を楽しみ、昭和13年2月、脳溢血でこの世を去った。

木曽川の7つの発電所は、建設から100年ほどが経った今もなお現役で稼働し、関西電力に所属して関西地方の生活を支えている。

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