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【福澤諭吉をめぐる人々】
松永安左エ門

2018/02/02

松永安左エ門(福澤研究センター蔵、撮影杉山吉良)
  • 齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

明治の幕開けとともに福澤諭吉が世に送り出した『学問のすゝめ』は、たいへんな反響を呼び、この本を読んだ日本国中の青少年が夢と希望を持って学問を志した。

明治8(1875)年、玄界灘に浮かぶ壱岐島(長崎県)で酒造業や水産業、交易などを手広く手掛ける商家に生まれた松永亀之助も、その1人である。松永は、『学問のすゝめ』を読んで、東京に出て福澤のもとで勉強したいと強く思うようになり、家族からの猛反対に対抗して、ハンガーストライキに打って出た。生来頑固な松永は一向に引かず、数日して母が味方し、ついに父を承諾させた。こうして14歳の松永は、壱岐島を出て上京し、福澤のいる慶應義塾に入学したのである。

わが人生は闘争なり

学校は面白く、松永は留学の希望を持って勉強に力を入れたが、3年ほどして父が急逝したため、慶應義塾を退学し、壱岐に戻って3代目安左エ門を襲名、家督を継ぐことになった。松永は3年間で拡大した家業を整理し、母の理解のもと、弟に留守を任せて再び慶應義塾に復学した。この辺りの境遇は適塾時代の福澤とよく似ている。

ある日、松永が学校の廊下で教師に向かって頭を下げている時だった。後ろから見知らぬおじいさんがやって来て「おい、お前さん、うちじゃお辞儀をしてもらっちゃあ困る。それは同じ仲間なんだ。ここで先生といえば、まあこのわたしだけなんだ」と言われた。これが松永の福澤との出会いであった。

松永たち寄宿舎暮らしの若者は常に空腹で、すぐ隣の福澤邸にいる鶏が目の毒になっていた。そして遂に松永たちは1羽くらい頂戴しても見つからないだろうと、鶏を捕まえ鍋に入れて食べてしまった。数日後、犯人一同は福澤に招待されご馳走に預かった。出てきたのは鶏鍋であった。「もっと食べろ」と福澤がにこやかに勧めても、松永たちはなかなかのどを通らない。福澤から「鶏鍋程度ならご馳走するから、よその鶏なんぞに目をつけない方が宜しい」と言われ、松永は恐縮しつつも、福澤と身近に接するようになった。福澤家に従って芝居を観に行き、福澤が健康のため日課にしていた朝の散歩のお供にも加わった。この「散歩党」をきっかけに7歳年長の福澤桃介(福澤の娘婿)と親交を深めることになる。

復学はしたものの、一刻も早く社会に出たくなった松永は、福澤にこのことを相談した。福澤は、「学校の卒業などということはたいして意義はない」と、これに賛同し、「月給取りはつまらぬから、うどん屋でも、風呂屋の三助でも良いから、独立した実業人になりなさい」と言ったという。こうして松永は、当時、学生たちが慶應義塾を出るときに寄せ書きした福澤の記念帳に「わが人生は闘争なり」と書き残し、慶應義塾を中退した。

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