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【福澤諭吉をめぐる人々】
松永安左エ門

2018/02/02

官僚は人間のクズである

松永は、福澤桃介の勧めで日本銀行に入行し、翌年には桃介の興した丸三商会の神戸支店長に就任する。ところが4カ月後、大口取引で資金調達に行き詰った桃介は、丸三商会を解散してしまう。松永の「月給取り」時代はこれで終わり、桃介から受け取った500円を元手に福松商会を興す。福澤桃介と松永の名から命名した福松商会は、当時花形の石炭卸売りで成功を収めるが、炭鉱に手を出して失敗、更に株式の暴落で松永は破産、加えて自宅が火事で全焼し、すっかり一文無しとなる。

32歳にして引退生活を送った松永は、これまでを振り返り、己の知恵、才覚でやってきたようでも、実は人や社会の世話になっていたことに気づく。そして今後は、「国家社会にできるだけ奉仕することが必要」と思うようになり、亡き福澤の説話を痛切に思い出したという。

そのうち、松永の道が開け始める。福岡市を走る市街電車の建設のため福博電気軌道が設立され、その実質経営者として福岡に乗り込んだ松永は陣頭指揮をとって、短期間での開業にこぎ着けた。やがて福博電気軌道は、電気を供給する側の博多電灯と合併して博多電灯軌道となる。ここから、松永の主戦場となる電力会社経営が始まる(市街電車は後に西日本鉄道〔西鉄〕へと引き継がれる)。

電力事業は、莫大な先行投資を必要とする。一方で、効率よく安く電力を供給するためには、競合を避け供給地を広げる必要があった。折から日本は、家庭用の電灯よりも工業用の動力の需要が高まる転換期を迎えていた。九州北部で始まった松永の電力経営は、合 併を繰り返し、供給地域が九州、関西、東海の1府10県におよぶ東邦電力へと成長した。当時、5大電力と呼ばれた電力会社にはほかに「電力王」福澤桃介が社長の大同電力、首都圏を基盤とする東京電灯などがあった。東京電灯は供給量不足で停電を起こすなど課題が多く、松永は関東大震災後の首都復興に向けて東京電力(現在の東京電力とは別会社)を設立、首都圏の電力供給に乗り込んだ。迎え撃つ東京電灯は貸付先の三井銀行池田成彬(せいひん)が関西で鉄道事業(阪神急行電鉄)を進める松永の友人小林一三(いちぞう)に再建を要請し、両者の一騎打ちとなった。新しい家が建つと2社の営業マンがやってきて契約を奪い合う状態は、翌年、池田の仲裁による両社合併で終結した。

電力は軍備拡張、戦争遂行に欠かせぬ事業のため、国家統制、国有化の機運が高まってきた。松永は、軍部の言 いなりになる官僚を批判し、経営者に自主独立を促すべく、座談会での席上で「官僚は人間のクズだ」と言い放った。しかし、松永の思いも空しく電力国家統制法が成立し、全国の電力会社を統合する日本発送電が設立される。松永は、全ての職を辞し、武蔵野の柳瀬村(現所沢市)の山荘に隠居した。

電力の鬼、いまだ耳順(したが)わず

松永は還暦をすぎてから、茶道の道に入ったが、これも趣味に終わらず本格的なものであった。その腕前は、三井の益田孝(鈍翁(どんのう))、製糸業の原富三郎(三渓)とともに近代三茶人に数えられ、自らを『論語』の「六十にして耳順う」から耳庵(じあん)と号し、度々柳瀬山荘で茶事を開いた。松永は、終戦後、柳瀬山荘と収集した古美術品を東京国立博物館に寄付し、自らは現在記念館のある小田原に移り住んだ。

戦後の電力事業は、日本発送電の解体、電力事業の再編成を審議する電気事業再編成審議会から始まった。委員長となった松永は、日本発送電を解体分割し地区別に9社体制(後に沖縄を加えて10社となる)にする案を提示し、日本発送電の機能を一部温存しようとする他の委員や政府、官僚とは真っ向から対立した。GHQへも繰り返し説明に赴き、国会の決議なしにGHQからの絶対命令という形で松永案が採用された。さらに9社体制に振り分ける公益事業委員会でも、自らの意見を押し通した。経営陣の人事では、息のかかった人材を送り込もうとする日本発送電側と激しく対立し、松永案で強行突破する。民間による自主独立経営を志向する松永の執念だった。松永自身、「いまだ耳順わず、人の言うこともハイハイとばかり素直に聞いておれない」と言っている。

松永は、7割近い電気料金の大幅値上げも実現する。政府も反対する値上げを実施するのか、という質問に松永は、「当たり前だ。政府は何も分かっちゃいない。そんな政府ならブチ壊してしまえ」と答えた。松永は、いつしか「電力の鬼」と呼ばれるようになった。国の復興には電力供給を増やす必要があり、自力で発電所を建設するために値上げは不可欠だったのである。値上げは、長い目で見れば産業の発展、国民の生活向上につながるものであった。

松永の眼差しは、電気事業や日本の産業の将来にも向けられた。エネルギーや環境についての研究開発を行う電力中央研究所を設立、さらに政財界の知識人を集めて産業計画会議を立ち上げた。この会議では12年間に16の提言を行い、「国有鉄道の改革」「東京湾埋め立て計画」など、当時は無理と思われたが、現在では実現している提言も多くある。

松永は、昭和46(1971)年、95歳で闘争の人生を終える。「死後一切の葬儀・法要はうずくの出るほど嫌いに是あり」の遺言に従い、葬儀、法要は執り行われなかった。

壱岐松永記念館(奥は松永の生家、手前は西鉄市内電車)
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