【福澤諭吉をめぐる人々】
アーサー・メイ・ナップ
2025/01/14
ナップ再来日
1889年10月22日(または23日)、ナップは米国ユニテリアン協会から派遣された宣教師クレイ・マコーリーを伴って再来日した。米国ユニテリアン協会による本格的宣教の始まりである。あわせて、福澤が大学部開設のために依頼し、エリオットの推薦を受けた3人の教師たちも共に来日している。理財科にはギャレット・ドロッパーズ、法律科にはジョン・ヘンリー・ウィグモア、文学科にはウィリアム・シールド・リスカムがそれぞれ着任し、主任教師となった。ドロッパーズとウィグモアはハーバード出身だが、リスカムは直前に1人が辞退したため、ブラウン大学出身である。
これらの主任教師の協力を得て、1890年1月27日、慶應義塾大学部が開設された。前述の通り、大学部開設にあたって福澤は教育システムをハーバードのシステムに準拠させたいと考えていたので、ハーバード出身の教師たちが来日したことは意味があることだった。さらに、慶應義塾からのハーバードへの派遣留学も実現し、大学部理財科1期生である池田成彬が1890年から5年間にわたり派遣されることになった。
1890年11月、ナップは病のため帰国した。ナップの送別会は、ハーバード大学出身で米国ユニテリアン協会による本格的な日本宣教開始にも大きな影響を与えたとされる金子堅太郎の司会のもと帝国ホテルで開かれた。
ナップ3度目の長期滞在、そして晩年
1897年春には永住の希望を抱いて来日し、3度目の長期滞在が始まった。しかし同年秋、ナップによる福澤に対する意図せぬ「裏切り」となってしまうような事態が発生した(詳細は土屋博政『ユニテリアンと福澤諭吉』)。ナップはハーバードのような大学と慶應義塾が提携するという計画を福澤に提案した。しかし、実際には当時ナップと仲が悪かったマコーリーの協力なくしては実現できない計画であり、この案は米国ユニテリアン協会にも受理されなかった。結果としてナップは福澤の期待を裏切ってしまったことで、両者の距離は離れていき、1901年の福澤の葬儀にも出席しなかった。
この長期滞在期間中、1900年から1910年まで、ナップは横浜にて、The Japan Advertiser(のちにThe Japan Times と合併)という英字新聞の社主と主筆を務める一方で、慶應義塾からは離れていった。1910年にアメリカへ帰国したが、彼の晩年は苦しいものであった。妻と息子に先立たれ、長い病の末、1921年1月29日に亡くなった。享年79。
ナップを介して福澤はユニテリアン協会やハーバード大学とのつながりを構築することができた。福澤とナップは最後まで良好な関係が持続したとは言いづらいものの、この関係なくして、3人の主任教師の招聘、そして大学部の設立はなかったといってよい。福澤の孫で本塾名誉教授の清岡暎一は、「ナップのような大功労者が、どうして慶應義塾史にもっと取り上げられないのであろうか」(清岡編、同前)と述べているが至言である。
〈参考文献〉
白井堯子『福沢諭吉と宣教師たち─知られざる明治期の日英関係』(未來社、1999年)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。
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