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【福澤諭吉をめぐる人々】
池田成彬

2017/05/05

池田成彬(福澤研究センター蔵)
  • 齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

福澤諭吉は、50歳を過ぎたころには、授業こそしなかったが演説館で学生向けに話をすることがあった。その日もいつものように縞の羽織に紺足袋を履いた姿で演壇に立つと、腕組みをして、微笑を浮かべながら話し出した。学生の野蛮粗暴なる態度を正そうというような内容の演説の中で、福澤は、「君たちは巧言令色をしなければならん」と言った。巧言令色は、口先だけでうまいことを言うという意味で、褒める時に使う言葉ではないが、福澤は、乱暴で非社交的で礼儀も知らない学生たちを諭すために、あえてこの言葉を使ったのであろう。世間が反発するような少し極端な言い方をするのは福澤の得意とするところである。

案の定、聴衆の学生の中に、この巧言令色という言葉を真っ直ぐに受け止めて、「何たる馬鹿なことを言うのか」と腹を立て、福澤が嫌になって、二度と演説館には向かうまいと心に決めた男がいた。後に三井財閥を率い、日本経済をリードした池田成彬(いけだせいひん)である。

古武士の風格

池田の人物評に「古武士の風格を帯びた紳士」(評論家の今村武雄)というものがある。池田は、常に威儀を正し、難しい案件にも眉一つ動かさずイエス、ノーを判断する。そして、控え目で、はにかみ屋でもあった。こうした池田の素地は、生まれた米沢藩の気風と、家庭教育によって育まれたようだ。

池田は、慶應3(1867)年、米沢藩士池田成章(なりあき)の長男として生まれた。7歳のころ、池田は、父に買ってもらった絵入りの読み物に、うっかり墨汁をかけて真っ黒にしてしまった。その時は噓をついてごまかしたが、後から噓が発覚し、池田は父に厳しくしかられて、一晩中、家の前に立たされた。それ以来、池田は、噓は断じてつくものではないと自分に言い聞かせ、後年、新聞記者が取材に来ても、「私は噓は言わん。言わんけれども話せないことは話せない」と鋭い目でじっと見つめて、記者たちをたじたじとさせた。また、ある日、父の友人から日記を書くことを勧められると、池田は「では書きましょう」といい加減に返事をした。それから10日ほどして父から日記のことを尋ねられた池田は、何も書いていないと答えた。父は、「書く気がないのなら、なぜ書かないと返事をしなかったのか」と、この時も池田を厳しくしかったという。

明治12(1879)年、父とともに上京した池田は、東京の学校に通い、その後、慶應義塾の別科に入学した。演説館で福澤の話を聞いたのは、池田が入学して早々のことであった。その別科を1年半ほどで卒業した池田は、しばらくイギリス人に英語を学んだ後、新たに発足した義塾の大学部に進学した。理財(経済)科の第1期はハーバード大学出身のドロッパースが教育に当たった。英語に長けていた池田はドロッパースから、何かと「イケダ、イケダ」と指名されたという。

慶應義塾からハーバード大学へ留学生を送ることになった時、理財科では池田に白羽の矢が立った。留学に多額の費用が必要なのは今も昔も変わりはないが、ハーバードがスカラシップ(奨学金)をくれるから心配ないと義塾側に言われ、池田は安心してアメリカへと旅立った。ところが、ハーバードに行ってみると、そのような規約はなく、但し貧乏で学問が優秀なものには基金があるという話であった。池田の家は留学費用を出せるほど豊かではないが、貧乏だからお金を恵んでもらうというのは気に入らない。そこで、池田はハーバードの総長に、貧乏という条件なしにスカラシップをもらいたいと、かけあった。

しかし総長は、規則は曲げられないと一歩も引かなかったため、頑固な池田は、「それならば断わる」と言って席を立ってしまった。結局、この問題は、池田の父が保証人となって義塾から借金する形で解決したが、池田の父は周囲から池田を帰国させたらどうかと忠告を受けても、それをせず、米沢藩士ならではの質素倹約をもって、池田の5年間の留学生活を支えた。このアメリカ滞在が、後に親米派と呼ばれる池田の基礎を築いたのである。

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