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【福澤諭吉をめぐる人々】
白石照山

2024/03/07

御固番事件により追放

福澤は照山のもとで順調に学んでいたが、ある事件をきっかけに中断を余儀なくされる。上士下士間の紛争、御固番(おかためばん)事件である。固番とは中津城門の警衛役で、固番の下には開閉番という足軽級が担う職があり、実際の城門の開閉は開閉番が行っていた。しかし嘉永6(1853)年、経費削減のため、城門の開閉など本来は足軽級の仕事も下士が行うよう命令が下り、これを不服とする下士数十名が命令取り消しを求めて藩上層部へ申立てを行った。

福澤は『旧藩情』でこの事件について、経費・職務量の整理だけではなく、上士の企みとして、「上士と下士との分界をなお明にして下士の首を押えんとの考」があったと指摘している。そして「その実はこれがため費用を省くにもあらず、武備を盛にするにもあらず、ただ一事無益の好事を企てたるのみ」と言い、対立の無益さを非難した。福澤にとってみれば、ようやく進み始めた学問の道が突然恩師の追放という形で閉ざされたわけで、門閥制度による非合理的な出来事として記憶されたのであろう。

照山は城門警衛を拒み、騒擾の中心人物として数十日にわたり抗議活動を続け、命令を取り消すことに成功した。しかし騒動の責を負って、中津藩から追放されることとなった。藩から出る際、照山は「道なき道はあらず」と大声で言い放って自宅の柱を切り付け、悠然と出て行ったという。

臼杵にて儒者として重用される

安政元(1854)年、中津を出た照山は豊後国臼杵藩へ向かった。しばらくは城下新町の長屋に仮住まいしていたが、後に臼杵藩主・稲葉氏の菩提寺である月桂寺住職・徹伝の紹介により臼杵藩に学頭として迎えられ、藩校・学古館の教授となった。臼杵藩には数名の学頭がいたがどれも朱子学の立場であったため、照山は別棟で亀井学の教授を行い、また教授の職だけでなく藩政改革にも参画した。この改革は「天保の改革」と呼ばれ、藩機構を再編成して、家格を問わず有能な人材を登用することで、宿弊を一新するものであった。照山は側用人として14代藩主・観通(あきみち)を支え、江戸にも同行するなど非常に重用された。この頃、照山待望の長男が生まれるなど、臼杵での生活は充実していた(久多羅木儀一郎「臼杵藩学史」)。

なお、三菱の大番頭として知られる荘田平五郎は臼杵藩出身で、13歳頃に学古館で照山の講義を受けたといい、多くの優秀な人材を育て上げた(宿利重一『荘田平五郎』)。しかし文久2(1862)年に観通が早世すると、破格の待遇を受けていた照山への反発もあって、翌年に臼杵を出る憂き目にあった。その後数年は豊前四日市の郷校で教授を務め、後に衆議院議員や官吏となる弟子を多く輩出した。明治2(1869)年に中津への帰藩が許可されると、帰郷後は儒官・教授となって、家格は上士格に、家禄も7人扶持へと昇格した。漢学教授として進脩館改革につとめ、学制以後は進脩館の後継である片端中学校でも勤務したが間もなく辞し、以後は晩香堂での教育に専念した。晩年まで積極的に著作を執筆したが、明治16(1883)年、胃癌のため69歳で逝去した。

福澤との交流

福澤と照山の縁は深く、特に著名なエピソードとして『福翁自伝』「四十両の借金家財を売る」がある。兄・三之助の死後、福澤は様々な出費によってできた40両もの多額の借金を整理する必要があった。一切合切、家のものすべてを売り払って借金返済に充てることとし、その中でも頼みの綱は百助の豊富な蔵書であった。優れた学者であった百助は、貧しいながらに貴重な唐本(とうほん)を買い集めており、高く売ることができると考えたのである。しかし中津では高価な書籍を買ってもらえる当てがなく、困った福澤は当時臼杵藩の儒者となっていた照山を頼った。照山は臼杵藩に働きかけて15両で蔵書の大半を購入し、福澤の窮地を救った。この福澤家蔵書は現存しており、臼杵市が所蔵している。

その後も2人は親交を重ね、交流は終生続いた。明治11(1878)年に福澤が『通俗国権論』を出版した際には照山に1冊贈り、照山は翌年「国権論跋」を著して完成を祝った。また国権論拝受のお礼状には、長男貞吉の進学についても相談し、これからは漢学のみではなく広く学ぶ必要があるとして慶應義塾への入学も視野に入れていたようである。一方で、福澤が照山に洋学を勧めた際には、照山は次の漢詩を読んで、その答えとした。

新学邯鄲歩未成 又忘故歩二難幷
不投時好非違世 欲免終身匍匐行

これは荘子の秋水篇「邯鄲(かんたん)の歩み」という故事になぞらえたものである。むやみに他人の真似をすると自分本来のものも忘れて両方とも失ってしまうという故事で、照山は新たに洋学に取り組めば漢学がおろそかになり中途半端となってしまうので、私は専ら儒学に精進するのが良いと詠った。福澤はこの返事を見て「勝手な事を云ふものかな」と言って大笑いしたという。若き日に学んだ荘子にちなんだ恩師の詩を見て、福澤も郷愁を感じたのではないだろうか。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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