三田評論ONLINE

【福澤諭吉をめぐる人々】
白石照山

2024/03/07

『照山白石先生遺稿』より
  • 松岡 李奈(まつおか りな)

    中津市歴史博物館学芸員・塾員

福澤諭吉に影響を与えた人物の1人に、中津藩の儒学者・白石照山(しょうざん)がいる。『福翁自伝』には晩学であった福澤が14、15歳で漢学を学び始めるエピソードが登場するが、福澤が本格的に学問を学び始める第一歩を踏んだのは照山の私塾・晩香堂であった。晩香堂では亀井学派に傾倒した照山の教えを学び、こうした経験が福澤の思想形成に影響を与えたことが指摘されている。また、下士の生まれながらにして江戸遊学が叶い儒者として成功した照山が、身分の低さによって不当な扱いを受けて藩から追放されたことは、青年期の福澤にとって父・百助と同様に封建社会の不合理さを痛感する出来事であっただろう。

下士の生まれながら学才を見込まれる

文化12(1815)年8月、照山は中津藩士・久保田武右衛門のもとに生まれた。初名は牧太郎、通称は五郎右衛門といい、後に常人(つねと)と名乗るようになった。最も知られる照山は雅号である。実父は号を勇閑とし、下士ではあったが祐筆を務めた学識高い人物だった。照山は長子であったが、後に中津藩士・白石団右衛門の養子となり、家督を相続した。家格は小役人、石高は4石2人扶持と非常に低く、供小姓で13石2人扶持の福澤家よりも下位にあった。福澤は『旧藩情』において、「下等士族は(中略)、中以上のところにて正味七、八石乃至ないし十餘石に上ず」と記しており、平均より低い白石家が困窮した生活を送っていたことは明らかである。そのような環境ではあったが、照山は幼いころから中津藩儒者で藩校・進脩館教授の野本白巌(はくがん)のもとで学び、その才を見込まれて、進脩館で督学に選出されたという。当時、中津藩内の身分格差は拡大する一方であり、開校当初は上士下士問わず入学可能であった進脩館も、時代が下るにつれて上士子弟でなければ入学ができない風潮へ変化していた。照山は藩校・進脩館で学んだという説があるが、どのような経緯で下士の身分で入学できたのかは判然としない。

野本の家塾は身分に関係なく学ぶことができ、島津祐太郎や小幡篤蔵(小幡篤次郎の父)、後には福澤の兄・三之助が野本のもとで学んだ。照山も最初は家塾で学び、その優秀さから藩校に推薦されたと考えるのが自然であろう。『照山白石先生遺稿』「白石家略譜」では「夙成(しゅくせい)の誉あり弱冠にして藩校の督学に任ぜられし」と記されている。照山は若年で栄誉ある職に就いたが慢心せず、自身が浅学であることを恥じ、より深く学問を追究したいと願う、篤学かつ早成な若者であった。

江戸遊学、昌平黌へ

天保9(1838)年6月、照山は督学の職を辞して、江戸に遊学する。最初に師事したのは幕府の儒者・古賀侗庵(どうあん)で、翌年には昌平黌へ入学している。本来昌平黌(昌平坂学問所)への入学は幕臣に限られるが、御儒者の許可があれば他藩からの入学も可能であった。こうした他藩からの入学者は通いか寄宿寮に入って勉強したが、寮費は幕府から出されるため、寮定員は30名(後48名)と狭き門であった。照山は数年ののち斎長詩文掛に選抜されている。詩文掛は寄宿寮より2名選出される役職で、斎長は生徒頭ともいい、書生を牽引する役職で非常に栄誉あることであった。また照山は江戸滞在中、野田笛浦(てきほ)ら名家に通い、朱子学を学んで学識を深めた。一方で、照山に一番影響を与えたのは亀井学派であった。『福翁自伝』では、照山について「一体の学流は亀井風で、私の先生は亀井が大信心で」と述べ、照山の学問的特徴として亀井学への傾倒と、広瀬淡窓(たんそう)や頼山陽(らいさんよう)への軽蔑をあげている。直接亀井塾へ入塾したことはなかったが、亀井昭陽らの著作を読んで感銘を受けた照山は、以後は朱子学ではなく亀井学を教授するようになった。

帰藩後、家塾をひらく 

天保14(1843)年、修学の後、中津へ戻った照山は中津城下北門通りに家塾・晩香堂をひらいた。晩香堂は漢学塾のなかでも塾生が多い評判の塾であった。一方で身分の低さからか中津藩からの覚えはあまりよくなく、藩務の傍らでの家塾経営であった。進脩館教授である野本家(野本雪巌(せつがん)・白巌親子)や山川家(山川東林・玉樵(ぎょくしょう))、手島家(手島物斎・塩巌(えんがん)兄弟、弟・塩巌はのちに福澤の母・順の妹である志従のもとへ婿入りした)は儒者として10人から7人扶持加増の評価を受けたが、照山は3人扶持で御儒者としては低く評価された。

福澤は嘉永の初め頃(1848年頃)より晩香堂に通い、4~5年ほど照山から学んだが、覚えは早かったようだ。晩香堂での生活について、『福翁自伝』では次のように記している。

白石の塾に居て漢書は如何なるものを読んだかと申すと、経書を専(もっぱ)らにして論語、孟子は勿論、すべて経義(けいぎ)の研究を勉め、殊に先生が好きと見えて詩経に書経と云うものは本当に講義をして貰って善く読みました。ソレカラ蒙求、世説、左伝、戦国策、老子、荘子と云うようなものも能く講義を聞き…

晩香堂では漢書の素読・講義・会読をよく行い、福澤曰く照山は「やかましい先生」であったが、こうして得た深い漢学の素養が福澤の下地となった。福澤はのちに漢学を攻撃する際に、自分は漢籍など知らないふりをしながら実際はよく読んでいて漢学の急所のようなところを抑えることができるが、これは「豊前の大儒白石先生」の指導によるものだと振り返っている。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事