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【福澤諭吉をめぐる人々】
島津祐太郎

2023/12/13

芳蓮院の信頼を得る

福澤は次第に中津藩の上士層や、家老などの大身(たいしん)衆からも信頼を得るようになる。また、中津も福澤に意見を求め、近代化を進めることになるが、その過程でも島津の存在は大きかった。

奥平昌邁の3代前の藩主昌暢(まさのぶ)の夫人であった芳蓮院は、一橋徳川家斉敦(なりあつ)の五女で昌暢の後の奥平家の当主からもその周囲からも大切にされていた。福澤は『福翁自伝』に、のちに島津から内々に聞いた逸話を記している。島津は芳蓮院に福澤から聞いた西洋の話をする中で、西洋では男女に軽重無く、いかなる身分でも一夫一婦であることを話したところ、心を動かされ、それから福澤を近づけるようになったという。そして、「御隠居様をはじめいわゆるお上どおりの人に会うてみれば、福澤の外道(げどう)もただの人間で、角もはえていなければ尻尾のある者でもない、至極穏やかな人間だというところからして、だんだん懇親になった」のであった。

つまり、島津の工夫によって、福澤は、奥平家の人々やその周囲の人達にも受け入れられ、また頼られることにもなっていったのである。

ちなみに芳蓮院は、明治5年に奥平家の人達と共に上京し、高輪の下屋敷跡の邸宅に住むことになったが、慶應義塾の環境を気に入り、結局、三田の構内にて、亡くなるまで過ごした。

なお、福澤は明治5年頃からは、奥平家の資産運用にも、評議制の仕組みを作ってその中心的な1人として関わっている。旧藩主の資産には、公的な側面もあり、その保全と適切な活用も意識していたと思われる。

中津の近代化に互いに協力する

明治維新後、明治2年6月の版籍奉還等によって、各藩は藩政の改革に迫られるが、当初は福澤は積極的に関わることはなかった。しかし、島津らによって、中津は次第に改進的な傾向が強まり、福澤と門下生が中津の近代化に尽力するようになる。

その中で、明治4年11月には中津市学校が設立される。これは、中津出身者を中心に慶應義塾から教職員が派遣された洋学校で、初代の校長は小幡篤次郎が務めた。運営の資金は、奥平家の家禄の一部と、旧士族達の積立金による互助組織天保義社からの拠出金で賄われた。明治8、9年頃には生徒数は600人程で「関西第一の英学校」と言われるまでになった。

また、藩の財政を担った山口広江は、廃藩置県に伴う藩の整理を終えたのちは、民間にあって、中津から日田に通じる道路の開業に尽力し、11年に開通させたが、島津は秩禄の奉還で交付された公債の全額を寄付して協力した。また、山口らが中心になって11年に中津に第七十八国立銀行を設立した時も、福澤は島津と書簡を交わしながら、助言を重ねたのであった。

島津祐太郎は明治11年7月、69歳で歿した。

中津からの塾生達は、草創期の慶應義塾が近代的学塾としての基盤を固めることに貢献した。また、中津では、中津出身の門下生と福澤に賛同する旧藩の有力者によって、版籍奉還によって生活の根拠を失った旧士族達が、洋学に基づいて、個人として、民において独立して地域を振興するという、先駆的な実践が展開されていった。これらの様相は島津の存在がなければ相当違ったものになっていたことであろう。

実際に、『豊前人物志』の島津の項は次のように結んでいる。

「復生人となり体躯短小なれども最も果断に富めり、復生始め帆足万里に従うて儒学を修め、後福翁に親炙してその誘導を受けしかば、頗る時勢の変移する所以を知り、即ち藩政に参与しては常に改進主義を取り、社会の方向に向っても専ら文明主義を鼓吹し、旧弊打破を唱道したり、中津藩士が他藩に先んじて家禄を奉還し、早く農商工の実業に帰せしもの多きは全く復生の率先躬行の賜なりと謂う」。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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