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【福澤諭吉をめぐる人々】
島津祐太郎

2023/12/13

福澤研究センター蔵
  • 山内 慶太(やまうち けいた)

    慶應義塾大学看護医療学部教授

福澤諭吉は、上士と下士の格差が厳然とある中で不満を抱きながら育ったが、他方で早くから信頼した中津藩の有力者がいる。それが、『福翁自伝』で、「奥平家の元老はすこぶる事のよくわかるいわば卓識の君子」と記されている、島津祐太郎(すけたろう)(維新後は復生(またなり)とも称す)である。

福澤が島津を大切に思っていたことは、明治4年、大阪医学校校長兼病院長であった昵懇の医師、石井謙道に宛てた書状が良く示している。そこには、「旧同藩の中にても兼て別段の懇意、先頃まで参事など相勤め、洋学に志篤く、一藩の標的とも相成べき正直の人物にござ候」とある。

そして、この3、5年来病気だが、中津ではその病因を診察できる医師もいない。本人は、「金を費し老病を救わんより、寧ろ子弟の洋学執行にその金を費し度(たし)」と思う人だが、自分をはじめ、小幡篤次郎は骨肉の縁もあって、傍観するのは堪えられない。治療がかなえば、本人の幸せだけでなく中津藩の少年達の裨益になることも多い。本人が大阪に行く折には、洋医(外国人医師)の診察と投薬が受けられるよう取り計らいをお願いしたい。なお、本人は相当の禄があるとは云っても、今の一般的な士族なので資産に余裕がある訳でもないので、診察にはなるだけお金がかからないようにして欲しい。さりとて、余り見苦しく他人の憐れみを乞うのも本人の意ではない。幾重にお含み置きを、と書かれている。

島津は文化6(1809)年生まれなので、福澤より25歳年上になる。『豊前人物志』によれば、藩政でも抜擢をされて中核を担った人で、元締役(財政・財務に関する一切の事務を司る)、群奉行(郡内の庶政を管轄し、租税徴収の事務を執行する)、破損奉行(城櫓・道路・堤防等の公に属する土木事業を管轄する)を兼任し、安政4年には目付役も兼務した。翌年には学館係(藩校進脩館の雑務全般と会計を取締る)を兼ね、文久元年には供番内用人席(家老を補佐し、藩政の枢機に参画する)に進んだ。また、文久3年、宇和島藩から藩主奥平昌服(まさもと)の養子として昌邁(まさゆき)が幼くして迎えられると、その養導の任にも当たるなど藩主にも信頼されていた。同書は、その人柄も、「性剛直朴実よく武人の風格を備えたり」で、賄賂を貪るような者も多い中、「独り復生は厳然として一切の請託を聴かず、常に倹約を守り」であったと記している。

ロンドンから心情を率直に伝える

福澤は、文久2年、遣欧使節の一員としてヨーロッパを巡歴した時には、ロンドンから島津に書簡を送っている。

その書簡では、まず、「再び得べからざるの好機会。右につき旅行中学術研究は勿論、その他欧羅巴(ヨーロッパ)諸州の事情風習も探索いたすべき心得」であり、各国の仕組みは「一見瞭然と申すには参りがたく候えども、これまで書物上にて取り調べ候とは、百聞は一見にしかずの訳にて、大いに益を得候事も多くござ候」であると、その心意気を示している。

また、「当今の急務は富国強兵にござ候。富国強兵の本は人物を養育すること専務に存じ候」と記した。福澤は、頼まれる形で築地鉄砲洲の中津藩中屋敷ではじめた塾を帰国後、近代的な洋学塾として整備することにも力を入れることになるが、福澤自身が、洋学塾の経営を生涯の使命と強く意識したことを示す重要な一節である。同時に中津藩においても洋学への転換を強く促した一節でもある。

その前段では、諸外国の事情を観察すると、日本も変革がなければ済まない。各藩においても必然のことで、肥前侯(鍋島直正)は、その見通しを持って、この使節にも3人を頼み込み加わっている。「何卒お家(中津藩)にても、肥前侯へ先鞭を付けられざるよう、大変革のご処置これ有りたく」と記した。

また後段では、今まで藩では人を抜擢するのに漢籍を読むことを先務としてきたが、「鈡太夫(家老奥平壱岐)、桑名太夫(家老桑名登)、今泉郡司殿、この三士は年来漢書を読み、実地に試み候所、堪えて用をなさず」と厳しく指摘し「富国強兵の本、人物を養育するは、必ず漢籍を読むにも在らざることと存ぜられ候」と指摘したのである。福澤の危機感があっての文章ではあるが、同時に、島津を相当に信頼をしていなければ書けない書簡でもある。

中津から優れた若者が入塾する

島津は、慶應義塾の基盤の確立にも大きな貢献をしている。

福澤は帰国して1年余、元治元(1864)年中津に帰省した際に、塾の将来を期待できるような優れた若者6人を見出し、江戸に連れ帰った。その6人は、生涯福澤と共に在って社中に尊重された小幡篤次郎、維新の動乱の中でも塾生の気概を確かにすることに貢献した小幡甚三郎、塾長を務めた浜野定四郎らであって、塾史を語る上で欠くことのできない人達である。漢学に優れていた篤次郎などは嫌がって姿を隠したのをようやく説得したのであったが、小幡家の叔父にあたる島津も、その推薦や説得に力になったと考えられている。

その後の島津宛ての書簡も興味深い。例えば、慶應2(1866)年の書簡では「中津に文学の教なし。世間見ずの田舎風にて」とか、「才ある者は狡猾姦佞(かんねい)に流れ、才なき者は頑癖固陋に陥り」等と厳しく指摘している。その上で、憂国の者は之を救う策も設けなければならないとして、「その策は文学を盛にするなり」と喝破している。この「文学」とは英学流の学問のことで、この書簡でも、「これまでの漢学にあらず趣意は或云随筆に詳(つまびらか)なり」と補足している。この書簡に添えられた『或云随筆(わくうんずいひつ)』は、各項が「或云(あるひという)」の書き出しではじまり、万国公法の存在、人は世界を知る必要があること、少年期の教育で留意すべきこと、等が記されているものである。また、書簡に追伸として、本文に記した西洋学とは、「砲術、器械術、航海術など、業前(わざまえ)の事を指すにあらず、学と術とは自(おのず)から分別にこれある事にござ候。混合すべからず」と念押ししていることも重要である。先述の肥前佐賀藩の西洋技術模倣の段階とは違う真の洋学をと中津人達の自負を刺激しているようにも感じられる。

このように洋学の必要を詳しく説明した上で、「先生は中津にて人望を得、人の標的に候得ば、先ずご令息方を御差出しなされたく、その外大夫方の男子も如何様にか御説諭なされ、洋学執行いたされたく」と島津の子供、藩の家老等の子弟を義塾に学ばせることを勧めた。

実際に効果はあったようで、この年、全入塾生68人の内訳を見ると、中津藩が、上士の子弟を中心に11人を占めている。なお、島津祐太郎の長男万次郎は明治3(1870)年、二男弟三郎は9年に慶應義塾に入学し、奥平昌邁も4年に入学している。

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