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【福澤諭吉をめぐる人々】
野口米次郎

2023/05/23

福澤研究センター蔵
  • 末木 孝典(すえき たかのり)

    慶應義塾高等学校主事・福澤研究センター所員

野口米次郎(のぐち よねじろう ヨネ・ノグチ)は20世紀前半に多数の著作を生み出した詩人かつ国際文化人として国内外によく知られた人物であった。しかし、今日では彫刻家イサム・ノグチの父親として紹介されるに至っている。野口は50年前の『日本の詩歌』(中央公論社)に他の詩人とともに選ばれるほどの詩人でありながら、その付録ではすでに文芸評論家が、一番読んでいない、食わず嫌いと明言するほど、長く忘れられた存在であった。

ところが、2012年に堀まどか『「二重国籍」詩人野口米次郎』が出版されると、同書はサントリー学芸賞を受賞したのである。野口が文化史・文学史に残した業績にようやく光があたったといってよいだろう。今回は堀氏の労作を参照しつつ、忘れられた野口米次郎を取り上げたい。

生い立ち

野口米次郎は、明治8(1875)年12月8日、現在の愛知県津島市に父伝兵衛と母くわ(久己)の間に第4子として生まれた。

父は織田信長を諫めたことで知られる平手正秀の弟を祖先にもつ家柄で、刀を捨て農家となっていた。母は幕末に活躍した雲井龍雄の親友釈大俊和尚の妹であった。両親は熱心な仏教徒で、米次郎の兄(三男)は出家し仏門に入った。米次郎は母から伯父大俊の話を常々聞かされ、伯父のように偉くなるようにと言われて育った。

米次郎は地元の津島小学校中等科を経て陶成学校で学んだ。その後、叔父を頼って名古屋の仏教学校に一時通った後、県立中学校に入った。この頃、スマイルズ『セルフ・ヘルプ』を読み英語学習に関心を持ち始めた。特に渡米して苦労した田中鶴吉という青年の物語「東洋のロビンソン」に影響を受けたという。当時の米次郎は外国人を見つけては英語で話しかける、物怖じしない青年であった。

明治23(1890)年2月、米次郎は立身出世を目指し、叔父宅を出て上京した。居候した家は時事新報社の隣にあった。日頃から着流し姿の福澤を見ていたが、物怖じしない米次郎も福澤には威厳を感じ、声をかけようと思いつつ、いつもの図々しさを失い声をかけることができなかったという。当時の青年にとって、福澤の存在がいかなる重みをもっていたかよくわかる。

学生生活

さて、野口は英学塾であった成立学舎に入ったが、時間にルーズで奔放な学生とそれを注意もしない教師にあきれたという。この頃、小説や芝居にふれるようになり、本人はこれを「不良的傾向」が出てきたと表現している。翌年、その傾向を払拭するため、近くで福澤を見ていたこともあって慶應義塾に入学した。英学を志す当時の学生にとって慶應への入学は自然の流れであって特別なことではなかった。野口は仲の良い友人もでき、友人の作文を代筆することで苦手な数学の試験を何とかクリアしたという。

当時の学生は活発で反抗心が強かった。誤訳の多い英語教師の授業では学生がストライキし、野口も委員として小幡篤次郎塾長に対して教師の罷免を求めた。小幡は「門野幾之進を派遣して調査させるからストライキを中止せよ」と言ったので学生は従ったが、門野は無言で教室を1周して帰って行ったので学生はあっけにとられたという。

慶應では主に経済と歴史を勉強し、また、別科のスペンサーの教育論に関する講義も受講した。やはり、文学に惹かれる傾向はやまず、アーヴィング『スケッチブック』を読んだり、親しくなった對馬健之助には尾崎行雄から借りたというユーゴーの随筆集を又借りして読んだりした。

その他、俳句にも興味をもち、其角堂永機(きかくどうえいき)の庵を訪問し、対話している。明治26(1893)年から志賀重昂(しげたか)の家に寄宿し始めた野口は、あるとき菅原伝の北米談義を耳にして訪米を決意する。

福澤との対面

野口が慶應で学んだ頃には、すでに福澤は教壇に立っておらず、演説館で講話する程度であった。野口は福澤の演説を数回聞いているが、特に人間を馬丁になぞらえた人生論が印象に残った。福澤は「馬丁が馬から離れすぎては馬はついてこられない、人間も偉すぎては世間を指導することができない。成功のコツは二三尺だけ先んずることにある」と述べた。

野口は一気に果実を得ようとする自分の姿勢は福澤主義に反していると思い、のちに慶應で教壇に立ってからも場違いな思いを感じ続けていたという。また、学生が演説中に床に投げたコップの水が聴衆の中にいた福澤にかかった際、福澤が大きな声で「馬鹿野郎!」と一喝したことを記憶している。野口はこれを、「愚者を打つ鉄の鞭」と表現し、噂に聞いていたとおりの福澤の癇癪に感心している。

2人が対面したのは、野口が渡米前の挨拶に福澤宅を訪れたのが唯一であった。光に鋭い感覚を示す野口は、回想で蠟燭の光が2人を照らしたことを記している(「自叙伝断章」)。福澤は眼前の青年が一文なしで外国に出かけることを勇気あることと褒め、「所詮人生は一六勝負だ、危険を恐れては最後の果実は握れない」と、人生をサイコロにたとえて励まし、野口は非常に喜んだ。すると、福澤は餞別として自らの写真を取り出した。そこに漢詩を書くために墨を摺る福澤の姿が鎌倉の大仏のように大きかったと描写している。福澤は漢詩を書きつけると丁寧に紙で写真をつつみ、「それでは体を大事にしてくれ」といって玄関まで野口を見送った。その写真は、渡米後もカバンに入れて持ち歩いていたが、スタンフォード大学の日本人学生に貸したところ、帰ってこなかったという。

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