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【福澤諭吉をめぐる人々】
田中鶴吉

2021/06/28

  • 結城 大佑(ゆうき だいすけ)

    慶應義塾女子高等学校教諭

明治20(1887)年5月30日午前、「島の人」が福澤宅を訪れた。今回取り上げる田中鶴吉(たなかつるきち)である。福澤は田中や井上角五郎(福澤のもとで金玉均ら朝鮮開化派を支援)と「色々打合」し、そのことについて直接相談したい旨の書簡を、本連載でも取り上げられた中村道太に送っている。この田中鶴吉という人物、いったい何者だろうか。

11歳の渡米

田中は安政2(1855)年、幕臣田中右馬之允(うまのじょう)の長男として麻布飯倉に生まれた。乱暴を繰り返す餓鬼大将で、両親は手を焼いていた。

その後11歳になった田中は子供心に、自分がいなければ両親に苦労をかけないと考えるようになったらしい。突然家を飛び出し、横浜の知己を訪ねた。時に慶応元(1865)年、安政の五カ国条約が調印されて7年が経ち、横浜には外国商館が立ち並んでいた。田中は商館に入り、丁稚奉公を始めた。

そんなある日、アメリカ商船の船長がその商館を訪ねてきた。田中を見た船長は、アメリカに行く気はないかと聞いた。なぜ誘ったのかは分からない。ただ田中はアメリカのことなど何も知らぬまま応諾し、船長の丁稚として横浜を出港した。

商船はオーストラリアに寄港した後、サンフランシスコに入港した。田中は当地で働くことを希望して船長と別れ、靴会社の社長宅で丁稚奉公をすることになった。月給20ドルで働きながら夜学にも通い、気がつけば明治4(1871)年、17歳になった田中は500ドルを貯めるまでになっていた。

ちょうど同じ年の暮れ、サンフランシスコに岩倉使節団が到着した。使節団は在留日本人に対して明治維新を伝えた上で、外国で何か技術を得た者が日本に帰国すれば成功すると説いたという。田中はこの言葉に発奮し、技術を身につけるべく動き出す。

製塩事業に挑む

田中が目をつけたのは製塩事業であった。サンフランシスコのアラメダ製塩場が上質な天日塩を生産しており、田中は製塩会社の社長を訪ねて同社の職人になることを希望する。製法の流出を懸念して拒む社長に田中は食い下がり、賃金は要らない、知り得た製法は口外しないと誓ってついに入社を認められた。次第に働きぶりが認められ、明治12(1879)年には結局月給80ドルを受け取るまでになった。

そうした中、北辰社という酪農会社を営む前田喜代松が遥々やって来た。幕府崩壊後の東京では廃墟となった武家屋敷を牧場に転換するところがあり、北辰社はその一つだった。前田は酪農を学ぶために渡米し、その際に田中のことを聞いて訪問したのである。技術を得て日本に帰るという共通の目標で意気投合した前田は田中に対し、日本で製塩事業を興すことを提案し、出資を申し出た。田中は感激するも、製法は秘密にする約束を社長としている。社長に直談判したところ、社長は製法の免許状を出して帰国を後押ししてくれた。同年12月、田中は14年ぶりに横浜の地を踏む。

田中は製塩の適地を探し、その試験場を東京深川に定めた。しかし海水を引き入れようとしたその前夜に暴風雨が直撃し、設備は崩壊してしまった。前田は再び支援を申し出るが、田中は申し訳ないと言って固辞し、天日製塩のできる場所を探す全国行脚の旅に出る。

辿り着いたのは、徳島だった。試しに塩を作ってみたら上質で、驚いた郡長は田中の製塩方法に学ぶよう製塩家に宣伝した。しかし彼等は旧来の方法に固執するのみならず、やっかみで田中の悪評を流布し、結局田中は徳島を離れざるを得なくなった。東京に辿り着いたのは明治14年3月で、しばらくは前田のもとで牛乳配達員をして生計を立てた。

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