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【福澤諭吉をめぐる人々】
田中鶴吉

2021/06/28

小笠原での無人島生活

田中が帰京した前年の明治13(1880)年は、小笠原諸島が政府から東京府に移管された年だった。東京府はその開発計画を策定することになったが、そこで名乗りを挙げたのが田中と前田である。小笠原の無人島でまず牧畜を始め、得た利益で製塩場を建設すると言う。二度却下されたものの府知事の松田道之が熱意を認め、まずは田中が渡航して適地を探すことになった。父島の北にある嫁島を見つけた田中は一旦東京に戻り、松田の許可を得た後、種牛五頭、豚20頭、米、麦、猟銃などを携えて嫁島に到着した。前田は東京から仕送りをすることにしたので、一人での上陸である。

明治14年9月から始まった無人島生活は艱難辛苦の連続で、まず豚15頭が病死した。食料もすぐに枯渇し、魚を食べて腸炎になったこともある。それでも田中は挫けず、打ち上がった鯨の死骸から鯨油を採って父島で販売すると200円になった。その資金で東京に行って牛や豚を購入し、再び嫁島に戻って牧畜に精を出すこと4年。牛や豚は順調に増え、嫁島だけでなく、聟島、媒島、姉島、妹島、姪島にも進出した。食料に困ることもなくなり、いよいよ父島に製塩場を建設する話になった。東京府でも田中への支援が検討され、府議会は市ヶ谷別房留置監の囚人300名を人夫として送り込む決議をした。

「東洋の小ロビンソンクルーソー」

さて、ここまでの田中の半生を世に紹介したのは時事新報である。明治19(1886)年1月15日から2月12日まで、「東洋の小ロビンソンクルーソー」という題名で連載された。連載までの経緯は次の通りである。明治18年12月、軍艦・日進艦が小笠原に寄港し、田中に出会った軍人たちはその高志に感銘を受けた。東京に戻り、田中の話を世に紹介したいと考えた大尉が時事新報に概要を寄稿し、記者が連載の形に仕立てたのである。

この連載の反響は大きかったようで、まだ連載が続いていた2月5日に、旧会津藩士6名が田中の製塩事業に参加するため東京を出港した。連載をまとめた小冊子が様々な出版社から発行され、明治20年代前半に発行された児童向けの立志伝にもたびたび田中が登場する。錦絵の題材にもなった。連載を京都の坂井座が「南洋嫁嶋月」というタイトルで舞台化し、オッペケペー節で有名になる前の川上音二郎が出演したこともある。

では、田中の製塩事業は成功したのだろうか。失敗したという指摘もある。天日塩生産はサンフランシスコのような乾燥した地域が適しており、台風も直撃する小笠原は確かに難しい。明治20年に帰京した際、田中はどのような気持ちだったのだろうか。

教導立志基 田中鶴吉 井上安治/ 画 出典:Tokyo Museum Collection

再びアメリカへ

ここで話を本稿の冒頭に戻そう。明治20(1887)年5月29日の夜に小笠原から帰京した田中は、翌日午前に福澤を訪ねた。帰京後すぐに福澤を訪ねている点に以前から福澤と親交があったことを窺わせるが、当時の福澤といえば、「移住論」の実現に向けて門下生の井上や中村、甲斐織衛(かいおりえ)(明治18年にサンフランシスコで貿易会社甲斐商店を創業)等と動いていた頃である。

移住論は、移民が活躍するアメリカを引き合いに、すでに『西洋旅案内』(慶応三年)の中で論じられている。明治17年頃からは時事新報上でも度々展開されているが、単に生活困窮者に向けて海外に出れば生計を立てられると説くものではない。例えば同年4月20日の社説「移住論ノ弁」で、「我国ノ人民一旦他国ニ移住スレバ唯其人民ガ栄達ヲ致スノミニ止マラズ我国ト其移住国トハ交際益親密ヲ加ヘテ魯衛ノ生ゼザルヲ得ズ」と述べているように、日本人の移住は当該国と日本の良好な外交関係に繋がると主張し、移住の重要性を国益の観点からも説いている点に特徴がある。

また福澤は、ただ移住者を送り込めば良いとは考えていなかった。彼らがアメリカ人の職を奪うような状況になれば日本人の排斥運動が起こるのは必至で、それを防ぐためには移住者自らが事業を起こさなければいけないと考えていた。短期的な出稼ぎ移住ではなく、長期的で社会に根ざした移住を目指しており、具体的には、アメリカで土地を買って農業を営むのが最善であるとした。加えて、協力者の甲斐が柳田藤吉(福澤の助言で北門社新塾を開校)に送った書簡で「最初送る人物は成る丈け身体強壮若年のものにて、後日大勢操出候節、大将分になれる様のもの御撰ひあり度」と述べているように、まずは先遣隊を送って地ならしをさせるような慎重なプランを持っていたようである。

その先遣隊約15名は明治20年6月9日に日本を出発した。福澤・井上・中村が共同出資した1万ドルを元手にサンフランシスコ郊外に土地を購入する予定で、責任者には井上が就き、田中もその先遣隊に名を連ねた。

田中が選ばれたのは、小笠原の無人島で生き抜いた経験を持ち、甲斐の言う「身体強壮若年のもの」「大将分」の人だったからであろう。また、福澤が田中のフロンティア精神を買っていたからではないか。振り返れば田中は、渡米にせよ製塩にせよ、そして小笠原生活も含めて、前人未到の区域に挑戦してきた。何が起こるか分からない移住事業の先遣隊に相応しい人事だっただろう。

なお、田中が小笠原から帰京した10日後に渡米しているところを見ると、田中の帰京は製塩事業の失敗によるものではなく、この移住に関わるための帰京だったように思う。移住論実現のために福澤らが以前から田中を誘っており田中がそれに応じたというのは、考えすぎだろうか。

サンフランシスコに到着した一行は土地を購入し果樹栽培に着手した。すると成績が良かったので、井上は福澤や中村と事業拡張の相談をするため、同年暮れに一時帰国した。しかしその際、井上が渡米前の甲申事変(明治17年)に関与した容疑で逮捕されてしまい、ついに再渡米できなかった。『井上角五郎先生伝』によれば、福澤は事業の終了を決め、移住団は土地や家屋を売り払った後、それぞれ思い思いに解散していったという。

その後の田中については諸説がある。日本人との接触を避け、サンフランシスコの劇場で会計助手として働いたという話がある一方、サンフランシスコに到着した日本人移民に鉄道人夫の仕事を紹介していたとの話もある。

田中は大正14(1925)年に亡くなった。確かに社会的な大事績を残したわけではないかもしれない。ただ、日系三世となった孫は三世最初の医師になったらしい。田中はアメリカ社会に根付いて生活し、その基盤を子や孫に引き継いでいったことになる。少々強引かもしれないが、福澤の移住論を体現した人物の一人に田中を挙げても良いように思う。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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