三田評論ONLINE

【福澤諭吉をめぐる人々】
木下立安

2019/12/27

「鉄道時報」と鉄道時報局のその後

鉄道協会は、明治32年7月に東京の帝国鉄道協会と合併、事務所を東京に置いた。これに伴い、鉄道時報局も大阪から東京に移転した。合併に伴い読者数は飛躍的に増加し、会計も協会から独立することとなった。同年の9月には出版事業も開始して『帝国鉄道要鑑』を皮切りに、34年6月には同局内に公益社を設立して『月刊最新時間表』などを相次いで刊行した。この時刻表は、大正3(1914)年に競合状態にあった時刻表出版社のうち庚寅新誌社を含めた有力3社が合併して旅行案内社を設立し、装いも新たに鉄道院公認『公認汽車汽船旅行案内』となった。社長には手塚、専務取締役に立安が就任した。この時刻表は、昭和19(1944)年3月の発行を最後に、財団法人東亜交通公社(現株式会社JTBグループ)に発行権を譲渡して廃刊となった。

「鉄道時報」は、日本国内はもとより鉄道発祥の英国でも話題になった。明治33年4月15日発行号では、The Railway TimesThe Railway News の二誌が驚きと称揚をもって報じた旨が原文引用の上で掲載されている。創刊から2年を迎えた34年4月には週刊化された。そして42年には、10周年を記念して『日本の鉄道論』を刊行した。「鉄道時報」に掲載された論説、講演、訪問録などの中から厳選した90本余りが収録されている。立安は緒言で「十週を記念して一杯の酒を酌むに値いせずとせん哉。然りと雖(いえども)祝宴は一時の盛也、書冊は永久の光明也。況んや最も書冊の欠乏を感ずる斯業読書界に於てをや。是れ吾人が華を捨て実を取り祝宴に代ふるに本書の発行を以てせる所以也」と述べており、編集者としての気概が感じられる。目次は、鉄道の起源、鉄道経営、営業(概論、旅客、貨物)、経理、電気、職員の順に大別されており、「鉄道時報」の内容の幅の広さが察せられよう。

その歩みは順風満帆とは限らず、経営に失敗して立安自身の家財道具を差し押さえられたこともあったと回顧している。しかし立安は、自らも取材を重ねて筆を執り、新規鉄道路線が開業する度に足を運んでは記事にした。大正12年には『乾ける國へ 満鮮支那旅行』を出版している。

昭和17(1942)年12月発行の第2239号を最後に、戦時の新聞統制の下に廃刊となり、多くの関係者がこれを惜しんだ。なお、翌18年に財団法人陸運協力会(現株式会社交通新聞社)によって発行が始まり現在に至る、交通産業関係者向け業界紙「交通新聞」は、鉄道時報を引き継いだものとしている。一方、本体の鉄道時報局は、出版二社を買収して理工図書株式会社に改組、建築・土木・家政学専門書の出版社として現在に至っている。

立安の活動は、時に「鉄道時報」の外にも及んだ。例えば、明治39(1906)年12月には、自らが発起人となって福澤桃介や藤山雷太らと共に東京地下電気鉄道株式会社を設立し、二路線(高輪〜銀座〜浅草間、銀座〜新宿間)について免許を出願した。日本における地下鉄敷設免許出願の第1号である。

晩年は熱海で余生を送り、昭和28(1953)年6月、86年余りにわたる生涯を終えた。

『乾ける國へ 満鮮支那旅行』より 南満州鉄道本社

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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