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【福澤諭吉をめぐる人々】
木下立安

2019/12/27

鉄道協会の設立

明治31年4月、豊州鉄道技師長村上享一、一時期慶應義塾で学んだ阪鶴鉄道社長南清らが中心となり、私鉄有力者の賛同の下に鉄道の調査研究・会員相互の親睦を目的として、鉄道協会が設立された。所在地は、村上と南が前々年に創立した鐵道工務所(大阪市北区若松町)内であった。南は、工部省御用掛として鉄道技術家の道を歩み始め、23年、山陽鉄道に技師長として移ると、初代社長中上川彦次郎(塾員)の下で困難な建設工事に携わった。

鉄道協会会長には牛場卓蔵(塾員、山陽鉄道専務取締役)、副会長には南、評議員には村上のほか菊池武徳(塾員、九州鉄道総務課長)・西野恵之助(塾員、山陽鉄道運輸課長)らが就いた。菊池は、立安よりも1年早く別科を卒業し、時事新報社を皮切りに社会へ出た人物である。西野は菊池と同年に卒業し、山陽鉄道の設立に合わせて入社した。

鉄道協会は、設立初年の10月に機関誌「鉄道協会誌」を隔月で発行し始めた。内容は、鉄道関連の研究論文や建設報告を収録したものであったが、翌11月の評議員会では、多くの鉄道関係者が興味を持ち、啓蒙されるような雑誌を発行すべきとの意見が出された。多くの評議員がこれに賛成し、その担当者として新聞・鉄道両業界での経験を持つ立安が候補に上がった。一方の立安は、かねてより鉄道業界にこの類の雑誌の必要性を感じており、丁度、紀和鐵道を退職して手も空いていた。こうして鉄道協会は、協会内に鉄道時報局を設置し、「鉄道時報」を発行することを決議、発行事務を立安に一任した。

「鉄道時報」の発行

明治32(1899)年1月15日、構想から僅かな期間で「鉄道時報」第1号は発行された。サイズは概ねタブロイド判の16ページ(他付録4ページ)、定価4銭、月3回発売とした。

一面の題字は、当時の鉄道事業者の社章に囲まれている。本文欄外には、「日本唯一の鐵道専門雑誌」を筆頭に宣伝文句が並んでいる。題字と目次のほかは、ほぼ全てを広告で占めている。この配置は、「時事新報」が時折採用していた。二面も全面広告である。

三〜四面は発刊趣旨・祝詞・論説に充てられている。発刊趣旨には、鉄道に関する一切の事項を網羅し正確綿密にこれを報道するとあり、立安の温厚な人柄で曲がったことは塵一つも許さない公平な性格が滲み出ていた。この一貫した取組姿勢と実践こそが、鉄道時報の資料的価値と評価を一層高めた所以である。祝詞は法学士の小幡三郎が寄せている。論説は二点ある。一点は、菊池が「鉄道国有の可否」と題して可否それぞれの要点を挙げている。菊池には米国渡航歴があり、欧米各国の事例を交えていることに先見性が垣間見える。二点目は西野(紙面にはW・F生の署名で記載)が「遠距離の乗客賃金を大に低減すべし」と遠距離逓減制運賃の必要性を訴えている。

四面以降には、講演、訪問録、時事、時評、外報、統計、技術一班(技術解説)、人事、学校案内、株式、鉄道協会記事、紀行、会話が続く。会話とは、鉄道職員常用英会話と銘打ったもので、当初は単語の羅列から始まり、第4号以降では会話が加わる。

十四〜十六面は再び広告に充てられ、関西鉄道・大阪鉄道・参宮鉄道・南海鉄道・山陽鉄道といった鉄道事業者のほか、車両に関わる製造事業者、銀行などが占めている。

4ページ分の付録には時刻表が収録されている。右綴じ・縦書き・漢数字を用いた配置は、手塚猛昌(てづかたけまさ)(塾員)が手がけた庚寅新誌社による日本初の月刊鉄道時刻表『汽車汽船旅行案内』(明治27年10月創刊)に類似している。手塚は、立安の1年後に別科を卒業した。

「鉄道時報」創刊号(明治32[1899]年1月15日発行)
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