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【福澤諭吉をめぐる人々】
木下立安

2019/12/27

木下立安(『日本の鐡道論』より)
  • 坂戸 宏太(さかと こうた)

    慶應義塾横浜初等部教諭

昭和47(1972)年10月、日本の鉄道の歴史は100年を迎えた。これを記念して日本国有鉄道は、100年史を編纂した。その最後に刊行された通史の巻末に、66ページから成る附録が収録されている。その大半は、鉄道を育てた人々の紹介に充てられているが、創業期の技術者たちの一人に木下立安(きのしたりつあん)が登場する。

木下立安とは、新聞記者と鉄道経営の経歴を併せ持ち、その経験を活かして日本初の鉄道情報紙「鉄道時報」を世に送り出し、鉄道記者の草分けと称される人物である。その紙面は、鉄道史及び関連の研究で今なお第一級の資料として参照されている。

生い立ち

木下立安は、慶應2(1866)年11月、紀伊国伊都郡中飯降村(現和歌山県伊都郡かつらぎ町)の医家に生まれた。幼少期より郷里の私学校で漢学及び英語を学び、また京都へ出て石津灌園の塾で学んだ。その頃から、大の旅行好きで、学業の余暇を利用して年に4、5回は必ず名勝旧跡を訪ね、自然を友として周密精到な観察眼で人情風俗を探っていたという。紀伊は、元々、和田義郎、小泉信吉(のぶきち)、鎌田栄吉をはじめ多くの入学者がいて義塾とつながりが深いが、伊都郡にも義塾で学んで帰郷した森田庄兵衛らが興した伊都自助学校もあった。

明治19(1886)年5月、立安は19歳で慶應義塾に入学し、晩学生のための課程である別科に在籍した。21年2月、採点基準の改定に反対して正科と予科の塾生が同盟休校を敢行する事件が発生した。立安は、この事件の仲裁役として別科生が立つことを提案し、これを契機として事態は収束へ向かって動き始めた。21年7月、別科を卒業、同科24人の中で優等と特記されていた。卒業にあたって立安は、福澤から「数字の思想に乏しき者は駄目なり」という言葉を贈られた。

「時事新報」から鉄道事業へ

卒業後、時事新報社に入社し、本社、横濱出張所、大阪出張所に勤務した。24年には、福澤が大阪駐在の立安へ白絞油(しらしめゆ)の商況について調査を依頼する書簡を送っている。白絞油の主な用途は食用であるが、後掲の「鉄道時報」掲載の広告によれば、当時は機械油の代用品として流通していることが機械を傷めるとして問題視されていた。

25年、立安は北海道炭礦鐵道會社に移り、小樽手宮賣炭所の主任に着任した。同社は、福澤との関わりも少なくなく、22年の設立時に出資者の1人になっただけでなく、米国ペンシルベニア鉄道での見習を終えて帰国した福澤桃介(二女房の夫)も入社していた。また、井上角五郎も26年には専務取締役となっている。立安の在籍は一時的なもので、時事新報社復帰後は経済部を担当、記者の肩書きで記事が掲載されたこともあった。

28年、立安は時事新報社を退職して、故郷に建設が進められていた紀和鐵道會社(現JR和歌山線の一部を成し、高野山麓へ到達した最初の鉄道)の支配人に就任した。

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