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【福澤諭吉をめぐる人々】
和田義郎夫妻

2019/06/27

「性質きわめて温和」

福澤が初等教育を和田に託したのはなぜなのであろうか。『福翁自伝』で和田について語っている。

「明治四年新銭座からいまの三田に移転した当分のことと思う。ある日和田義郎(いまは故人になりました)という人が、思い切った戯れをして壮士を驚かしたことがある。この人はのちに慶應義塾幼稚舎の舎長として、性質きわめて温和、大ぜいの幼稚生を実子のように優しく取り扱い、生徒もまた舎長夫婦を実の父母のように思うというほどの人物であるが、本来は和歌山藩の士族で、少年のときから武芸に志して体格も屈強、ことに柔術は最も得意で、いわゆるこわいものなしという武士である」

福澤は、「先ず獣身を成して後に人心を養え」と言い、子供の段階では、「身体の発育」から「精神の教育」、そして知育へと徐々に移行していくことが良いと考えていた。そして「精神の教育」についても、春の風のように和やかで、清らかな雰囲気を大切にしていた。その点で、柔術に長け、温和な人柄の和田は最適であった。

その和田の風貌や雰囲気について、後に和田義郎の養子になった和田貞之進の「覚書」には次のようにある。

「先生は体格肥満偉大にして五尺五、六寸もあるように見え、豊頬に薄赤き美髯を蓄え、一寸西洋人かと見まがう容貌をして学者型より寧ろ武士的典型であった」
「先生の存世中に只の一度も生徒同士のケンカ、握(つか)み合いなどを見た事がなかったし、又闘争的の仲裁制裁必要もなかった。若(も)し生徒の一人が見苦しい処作でもあったら、其生徒を先生の前に連れ出して、何の小言もいわず、微笑、偉大なる人差指を平手に出して『サアお手をお出しなさい。シッペを一つ上げましょう。』とシッペの仕草をしたらどんな腕白生徒も一時に縮み上がって仕舞い、それから誠に温和な生徒になって仕舞った処など誠に奇妙な懲罰であった。併(しかし)唯一人此先生のシッペの御見舞を受けたものはなかった」

当時の幼稚舎の教育の特色によく挙げられるものに柔術と共に演説の練習がある。第1及び第3土曜日の夜、夕食後に寄宿生を全員大広間に集めて演説会を開き、演説の練習をしたという。幼稚舎生であった中山和吉は次のように回想している。

「十二歳位から以下の子供は『汽車の効用を申します』とか『水の効用を申します』と言った様な極めて簡単なものであったが 漸時上級となり、又年齢も長ずるに従て可なり聴き耐えのある名演説もあった。又各生徒共次の演説会には如何なる演題で如何に述べようかと常に注意をしていたので、生徒の観察力と批評眼を養成した効果もあった」

慈父慈母の如く

では、幼稚舎生には和田はどのように映っていたのであろうか。和田夫妻を「慈父慈母の如く」と記し、「家庭的」と記しているものが多い。

例えば、森村市左衛門は、和田のことを「慈父の如き伯父さん」と題してこう記している。

「私の記憶する和田先生は、先生というような感じを少しも生徒に与えない慈父の如き実に優しいおじさんという感じを未だに持っているのであります。恐らく誰でもそういう感じを持っているだろうと思います」

その日常は中山和吉が詳しく回想している。例えば、年少の者は、和田の居間の斜め前にある第一食堂で食事をしたが、「幼い者や新入生には奥様やお秀さんが手づから御飯のお給仕をして下さった」という。また、就寝は午後9時であったが、「それから1時間も経つと、和田先生は提灯を持たれて各室を巡視され、又夜半の2時頃にも今一度巡視され、もし寝具を剥いでいる生徒があると丁寧に寝具を掛けて下すった」という。また、おねしょをして、お秀さんの世話になったという人も多い。

武藤山治は著書『私の身の上話』において、和田塾の家庭的な雰囲気を「この和田塾では上級生下級生という差別観念はなく、全く家族同様に取扱われました」と語っている。そして次のようにも記した。

「幼稚舎における和田先生と生徒との間柄は全く家庭的であって、一同は和田先生と言わず、『和田さん』と呼んでいました。(略)又和田先生が一同の出席簿をおつけになる時にも決して『何某(なにがし)』と呼び捨てにはしないで必ず『何々さん』と呼ばれておりました。つまり師弟間に階級的な観念を作らず親密な温情が溢れていたのでした」

なお、武藤は、「頃日(けいじつ)になって考えますと福澤先生が幼稚舎を御創設になったのは、英国では人格の高い先生が限られたる生徒を預って家庭的に世話をし人格を練る、小さな塾舎のようなもののあるのをお聞きになって、特に人格の高い温厚なる和田先生にその仕事を託されたのではなかろうとも想像されます」とも語っている。

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