三田評論ONLINE

【福澤諭吉をめぐる人々】
和田義郎夫妻

2019/06/27

和田義郎と妻の喜佐
  • 白井 敦子(しらい あつこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

慶應義塾幼稚舎は、2024年に創立150年を迎えることになるが、この幼稚舎の原点は和田塾である。和田塾を開いたのが和田義郎(わだよしろう)で、妻喜佐(きさ)と共に、慶應義塾の中で最も幼い子供達を預かり、教育をした人物である。

和田義郎は、天保11(1840)年に和歌山藩の下級士族の家に長男として誕生した。文久3(1863)年に義郎が数えで24歳の時に、同藩の江川氏の娘である喜佐と結婚した。

慶応2(1866)年、和田は27歳で小泉信吉(のぶきち)らと共に、紀州藩の留学生として鉄砲洲の福澤塾に入り、約1年2カ月学んだ。しかし、大政奉還、明治維新へと続く騒然とした状況の中、諸藩の士族の塾生は、塾を離れる者が多かった。和田も同様に和歌山に帰省したが、明治2年に再び上京し、慶應義塾に学び4年には修業を終えて英語教師となった。6年には、エドワルスの著作『英吉利史略(イギリスしりゃく)』を翻訳し上下2巻として出版した。

和田塾―幼稚舎―のはじまり

維新の動乱も落ち着くと、塾生数は増大、慶應義塾は明治4年には三田に移転し、更なる発展の基盤を固めた。

当時の塾生の大半は寄宿していたが、福澤は、子供と大人の塾生が雑居する環境が良いとは考えていなかった。そこで、義塾では、三田に移転する前から既に童子局(童子寮)を別に一室設けていたが、明治4年の「慶應義塾社中之約束」では、童子局の規則も設けている。すなわち、童子寮に入ることのできる年齢を12歳以上16歳以下と定めたのをはじめ、その生活についても、部屋の出入りや門限などを定めている。実際には、7歳や8歳というように12歳に満たない入塾者も相当数いた。明治5年の「私学明細表」によれば、全塾生の1割弱が13歳以下である。

一方、国内では、明治5年に学制が敷かれ、東京府内にも新しい小学校ができ始めた。しかし、この新しい小学校は、未だ旧来の寺子屋と大差なく、福澤にとって必ずしも自身の理想とは合致していなかった。加えて、福澤は、自分の子供達がちょうど学齢期に達する中で、その教育についても切実に考えるようになっていた。

福澤は、自らの子女や年少の塾生の教育、つまり初等教育の分野を安心して任せることができる人物はいないか、と考えていたことであろう。そして託したのが和田義郎であった。

和田義郎夫妻は明治5年頃から自宅(現在の正門脇消防署辺り)で、年少の塾生を何人か預かり世話をしていたと言われているが、正式には、明治7年1月に数名を自宅に寄宿させて、夫婦で教育を行い始めた。場所は三田山上に移り、図書館旧館の辺り、これが和田の私塾「和田塾」のスタートであり、幼稚舎の創始である。和田が没するまで、経済的には慶應義塾から独立した寄宿学校で、和田は、妻の喜佐、実妹の秀(ひで)と共に家族ぐるみで子供達の面倒を見たのである。和田夫妻には実子がいなかったが子供好きで、もってこいの役割であった。ちなみに、和田塾に「幼稚舎」の名がついたのは12年ないし13年頃と言われている。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事