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【福澤諭吉をめぐる人々】
高石真五郎

2019/02/26

日露戦争直後のロシアへ

明治37年2月、日露開戦に伴いロンドン・デイリー・エキスプレス社に嘱託として入社、日本からの電報の固有名詞などをチェックする仕事を得た。これを仲介したのは日本公使林董(はやしただす)であったが、彼は福澤諭吉と縁戚関係にあり、目にかけてくれたという。この頃、思い立ってドイツ語の勉強にも励んでいたが、これが次に繋がる。

明治38年8月、突然大阪の本社より電報で、日露講和妥結前にロンドンを発ちロシアに入れとの命令が下り、資金として1万円の電報為替が届く。林公使に相談すると「命が2つあったら出かけるんだね」と脅されたが、ベルリン公使を紹介してくれ、入国の機会をドイツで待つことになった。程なく日露講和妥結を迎えたが、ロシアへの鉄道の大ストライキが発生し入国不能となったため、待避中だった在露日本公使館員のロシア人夫人から4カ月のロシア語特訓を受ける猶予を得ることとなった。どこまでも運と金に恵まれた人である。

同年12月、再開準備の日本公使館員より先にロシア入国一番乗りを果たし、サンクトペテルブルクに到着。日本海海戦で戦没したロシア海軍将校の未亡人宅に下宿するなどしながら、唯一の日本人記者としてはロンドンの新聞を参考に現地報道を加味して政情記事を「でっちあげた」。「もぐり」の特派員だったと本人は卑下しているが、生の取材はできる状況ではなかった。とはいえ、日本での捕虜生活を愉快げに語る軍人などに「大国」を実感しながら、7カ月ほどの現地生活を満喫している。土産話にとトルストイ会見も敢行した。明治39年8月ロンドンに帰着したときには、月給40円から130円への増額通知が届いていた。

ハーグで韓国密使を発見、スクープ

高石の武勇伝は続く。翌年6月ハーグでの万国平和会議へ出張する。内容は地味で、現地取材の日本人はやはり高石だけだったが、ここでいわゆるハーグ密使事件が発生する。第2次日韓協約により日本に外交権を奪われた韓国が、その無効を主張する韓国皇帝の親書を携えた密使を派遣して会議の場で外交権回復を画策したものであった。高石はその存在を嗅ぎつけ、当の密使を発見。日本人で唯一面会に成功して日本に打電した。高石自身のいうようにこれは「韓国併合という国際的悲劇の動因となった」のだった。

このように高石は、駆け出しの記者時代に、全く下地なく欧州を股にかけて活動し、世界の要人とも渡り合う度量と、地球規模の視点で日本を見つめる視座を獲得することができたのである。帰国は明治42年5月、7年ぶりであった。この時も帰国費用の1000円を帰国前に使い果たして再送してもらったという。何と自由なのだろう。

「外電の毎日」の確立

高石は間もなく外信部長となり、内国通信部長で親友の奥村信太郎(塾員、中津藩主奥平昌邁の実子)との連携で、紙面の充実と事業の拡充に奔走したが、なんと言っても高石の功績は国際ニュースによって『大毎』の声価を高めたことである。

大正7(1918)年のパリ講和会議でも前線指揮を執ったが、この時全権団の電報が優先され新聞社の電報が2週間以上もかかることに業を煮やし、シドニー経由での連絡ルートを開拓。他社だけでなく全権団の連絡さえ出し抜いた。

高石はまさにとんとん拍子で、大正11年、44歳で主筆、次いで編集主幹、常務取締役と進んでいった。

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