三田評論ONLINE

【福澤諭吉をめぐる人々】
手塚猛昌

2018/11/28

『汽車汽船旅行案内』のその後

発刊から暫くは、苦戦が続いたようだ。明治36(1903)年1月発行の第100号巻頭で手塚は、資金面について「他の会社へ奉公し夜は帰りて我社の編集に従事し以て財政の不足を補い」と回想している。編集面では、国内鉄道網と外航航路の拡大により、本文だけで200ページ超に達した。それでも時刻表の需要は日を追うごとに増し、類似の出版物が次々に刊行されたことが人気の上昇を物語っている。手塚も『英文旅行案内』、『汽車汽船旅行案内』から旅行関連の記事を分離独立した『旅行案内』(いずれも月刊)などを次々に出版した。

大正3(1914)年、競合状態にあった時刻表出版社のうち庚寅新誌社を含めた有力3社は、内閣鉄道院の働きかけにより合併して旅行案内社を設立し、手塚は社長に就任した。鉄道院公認となった新装『公認汽車汽船旅行案内』は、最も歴史のある『汽車汽船旅行案内』の判型・号数を踏襲した。

大正14年に日本旅行文化協会から『鉄道省編纂汽車時間表附汽船自動車発着表』(現在の『JTB時刻表』)が発刊されると、『汽車汽船旅行案内』は鉄道省公認を外され、主役の座を譲ることになった。その後、昭和19年3月に廃刊、最終号は通巻593号であった。時刻表元祖のブラッドショウによる鉄道案内が、後発のトーマスクック鉄道時刻表に取って代わられ廃刊に至ったように、『汽車汽船旅行案内』も同じ運命を辿った。

手塚のその後

手塚の名は、時刻表出版事業で広く知れ渡ることとなった。東京市街鉄道取締役、横須賀電気瓦斯株式会社取締役を歴任した他、明治39年には東洋印刷株式会社を創立して社長に就任した。翌年には、渋沢栄一を社長に迎えて帝国劇場株式会社を設立、自身は専務取締役に就いた。手塚は、幼少期より演劇に興味を持ち、『汽車汽船旅行案内』発刊時期に福澤から演劇を改良するよう勧められた。福澤は、手塚を連れて本郷座を訪れ、岩崎彌之助にも話を通すなど世話を尽くし、荘田平五郎と手塚を福澤の私邸に呼んでいよいよという時、日清戦争が勃発して見合わせた経緯がある。

晩年は、後進育成にも携わり、昭和4年に及川恒忠(塾員、慶應義塾大学法学部教授)の呼びかけに応じ、西村有作(塾員、資産家で東工船株式会社取締役等を歴任)とともに武蔵高等工科学校(現東京都市大学)を創立した。西村は、須佐から程近い阿武郡奈古村(山口県阿武郡阿武町)の出身で手塚とかかわりが深い。

手塚の郷里に鉄道が延びてきたのは、昭和3年のことである。4年後の昭和7年、手塚は逝去した。政界を夢見た遅咲きは、実業界にその名を残した。亡骸は、青山霊園に眠っている。翌年、山陰本線は須佐から隣町宇田郷まで開業により、総延長670キロ余りを36年かけて全通した。それから80有余年、彼の碑は今日も日本の鉄路の定時運転を見守っている。

手塚と妻の嘉女が眠る墓(青山霊園)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事