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【福澤諭吉をめぐる人々】
手塚猛昌

2018/11/28

出版社を創業

明治22年、手塚は義塾別科を卒業した。卒業後、暑中休暇中に郷里へ戻り、残してきた家族を連れて東京に生活拠点を構えた。明治23年、時の干支から字を取り、庚寅(こういん)新誌社を東京市京橋区鎗屋町(東京都中央区銀座)に創立した。当初の出版物は、『庚寅新誌』、『日清韓三国体照朝鮮変乱詳細地図』、寺島宗則(政治家)著『寺島伯論説』など、政治色の濃いものが目立った。これは、手塚が『庚寅新誌』の刊行を機に政界入りを目論んでいたことが影響しており、その後間もなく衆議院議員に立候補すべく意気込んだものの、志と現実の相違により断念した。この他、出版物の中には『慶應義塾之学風』などの社中を扱ったものも含まれていた。これらを合わせた売上は、後出の時刻表には及ばず、貧困に窮して身を置く所がない程だったと述懐している。

時刻表を発刊

明治27年10月5日、当初の予定から5日遅れて、『汽車汽船旅行案内』は出版の日を迎えた。遅延理由は、原稿増加とそれに伴う活字の組み直しの影響だった。発刊について巻頭で手塚は、全国に汽車汽船網が整備されるに従って、これらを一括した正確な時間表の必要性を自らの体験から痛感したと記している。その着想は、鉄道の本家英国のブラッドショウが毎月発行する鉄道案内(世界初の時刻表)から得たとあり、渡航歴のない手塚に対して福澤が知見を提供したとされているものの、いずれの資料も裏付けには至っていない。祝辞は、今村清之助(東武鉄道取締役等を歴任)・渡邊洪基(塾員)・荘田平五郎(塾員)が寄せている。渡邊は、帝国大学初代総長・衆議院議員・参宮鉄道社長等の産官学を渡り歩いた。荘田は、慶應義塾で教職に就いた後、三菱財閥の要職を務め、後に手塚と組んで複数の事業に携わった。

『汽車汽船旅行案内』の体裁

今日において同書は、原本に忠実に復刻された版によっても、創刊号のほか複数の巻号を確認することができる。判型は四六判(縦約190ミリ×横約127ミリ)、表紙のみ2色刷、計96ページ、定価は6銭であった。

今日の時刻表と決定的に異なる点は、体裁が右綴じ・縦書きのため、漢数字で表記した点である。後に、他社から横書き・算用数字使用のものが刊行され、手塚も大正5年に『旅行案内横組時間表』を創刊した。本文は、鉄道運賃表・時刻表(縦書きのため、右から左に駅名と十二時制表記で時刻が進む。日本標準時は1889年に制定済。)に汽船時刻表が続く。次に、人力車(東京・横浜・大阪)、馬車鉄道(小田原鉄道馬車)、駕籠(箱根塔之沢発着)の時刻・運賃が記載され、時代を感じさせる。

交通機関の後には、各地の旅行案内、広告が並ぶ。汽船の広告は運賃表を含み、実質的に本文を補っている。この他、旅館、大手企業、護身用ピストル、英文広告など多彩である。中でも目を引くのは慶應義塾の広告で、その内容は塾生の募集に関するものである。広告出稿者は、義塾出身者に関連する団体が名を連ねていることも興味深い。

『汽車汽船旅行案内』通巻2号より(左:慶應義塾広告、右:本文)
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