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【福澤諭吉をめぐる人々】
手塚猛昌

2018/11/28

  • 坂戸 宏太(さかと こうた)

    慶應義塾横浜初等部教諭

平成23(2011)年10月5日、JR山陰本線須佐(すさ)駅前(山口県萩市大字須佐)にて、「手塚猛昌(てづかたけまさ)顕彰之碑」除幕式が、彼の功績を次代に引き継ぐための実行委員会によって執り行われた(駅敷地整備のため2019年1月末までの予定で近隣施設にて保管中)。この碑には、「時刻表の父 手塚猛昌顕彰之碑」と彫り込まれている。手塚猛昌とは、須佐出身で日本初の月刊鉄道時刻表を刊行した人物である。

生い立ち

手塚は、嘉永6(1853)年、長門国阿武郡須佐村にて岡部護英の次男、楮三郎の名で生を受け、後に義助と改めた。実家は、父が長州藩士でありながら裕福ではなく、文字の習得は四書五経の素読を父から受けて学んだ。その後、地元の須佐育英館で坂上忠介を始めとする和漢の学者に師事するも、講読する和漢の書籍は手写して蛍雪の功を積んだ。

明治4(1871)年、19歳の時に同郡黒川村(山口県萩市福川)士族手塚正篤の養子となって名を孝一に、後に猛昌に改めた。手塚家は、代々神職を生業としてきたことから、手塚もこれに倣って山口に出て、神道中教院に入り、須佐育英館でも師事した近藤芳樹らに従って国典を修め、岡村熊彦らについて漢籍を学んだ。後には同教院の教師に進み、周防一宮玉祖神社と山口黒川八幡宮の権禰宜を任ぜられ、最終的に中教院神道事務局副局長ならびに大講義の教職を務めた。

この間、世の中は幕末から維新の激動期を迎えていた。同郷の先達が新時代の原動力となったことに刺激を受け、手塚も長州で一生を終わらせたくないとの思いが募っていった。そしてついに、妻と愛娘を親戚に託して、洋学研究の目的をもって上京を決心した。この時、手塚は33歳を迎えていた。

最年長で入学

明治19年、慶應義塾に入学、塾内で最も老書生であった。相変わらず金銭面に余裕がなく、学業の合間を縫って、当時は三田山上にあった幼稚舎の漢学教師を務めてその俸給を学費に充てていた。手塚は、福澤から最も学ぶべき点として、人の世話に労を惜しまないことを挙げており、学費の工面においても福澤が世話をしたことが窺える。また、在学中に福澤から受けた忘れ難き教訓については、「此位の事に五枚も八枚も無駄に紙を使わないでも一枚にでも半枚にでも書けるではないか」と言われたことを挙げている。この教えは、限られた紙幅に最大限の情報量を盛り込むことが求められる時刻表編集に活かされることとなった。

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