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【福澤諭吉をめぐる人々】
小川武平

2018/10/26

第二の佐倉宗五郎

長沼の事件がひとまず落ち着いたことで、村民は福澤の尽力に報いようと、男は縄を(な)い、女は糸を繰り木綿を織って稼いだ227円を福澤のもとに届けた。福澤は、その志を喜んだが、これを受け取らず、かえってこれに3円足して230円として、「沼は5カ年貸下げの許可を得たものの、今後機会があれば、その所有権を回収せねばならぬ。そのためには金も要るであろうから、これは貯蓄しておくのが宜しかろう」と言って、村に返した。さらに福澤は、事件の起こった原因は村民の無学にあるから、小学校を設立し、教育を授けることが急用であると、建設資金として500円を長沼村に寄付した。こうして、県下2番目の小学校(長沼小学校)が設立された。

福澤にとって、このような長沼村への協力は、図らずも『学問のすゝめ』七編で主張した「マルチルドム」を実践し、立証する機会となった。七編で福澤は、政府の暴政に対し人民が為せることは、力を用いて政府に敵対することではなく、「正理を守って身を棄てる」、つまり命がけで正しき道理を唱えて政府に迫ることであると説いた。福澤は、これを西洋の語で「マルチルドム」(martyrdom)と言うと述べ、「マルチルドム」を行って世界に恥じない者は「古来ただ一人、佐倉宗五郎あるのみ」と書いている。

佐倉宗五郎は、本名を木内惣五郎という江戸時代前期の名主で、藩主の重税に苦しむ村民のために徳川将軍に直訴し、本人と家族は処刑されたが、訴えは聞き入れられて多くの村民を救ったと言い伝えられている。長沼村は、宗五郎の生地、佐倉藩公津(こうづ)村(千葉県成田市)に近く、事件の時は、村の婦女らが宗五郎を祀る宗吾霊堂まで、はだし参りの日参をしていたという。小川の買った『学問のすゝめ』が、この七編だとすれば、話の辻褄が合い、面白いのであるが、それは定かではない。

福澤は、長沼事件に奔走し、家を顧みる暇もなかった小川のことを気に病んだ。小川は、事件の途中で長男三蔵を病気のために亡くし、さらに家計も苦しくなり、所有の土地を売り払う始末となった。福澤は、自分のことを二の次に村のために働いた小川を「第二の佐倉宗五郎」と褒め称えたが、長沼村では、自分の田畑を放置した小川に対して必ずしも同情的な村民ばかりではなかった。福澤は、長沼村民に対して、小川が安心して村のために尽力できるように民心の一致を求める手紙(明治14年11月30日付)を送り、さらに同16(1883)年から4年ほどの間は、小川を東京に呼び寄せて福澤邸に寄宿させもした。

長沼の「ナ」

明治31(1898)年9月、脳溢血に倒れた福澤は、快方に向かいつつも、まだ言語が不自由な状態で、しきりに「ナ…ナ…」という言葉を発した。周囲が「長沼のことですか」と問い返すとうなずき、また「ス…ス…」と言うので、「鈴木充美(じゅうび)ですか」と聞くと、これもうなずいた。つまり、長沼の無償払い下げの申請手続きを塾出身の弁護士鈴木に託せよとの意味であると判明した。こうして国有土地森林原野払下法に基づき、払い下げを申請したところ、明治33年3月29日、長沼の無償下げ戻しの許可が得られた。福澤が事件に関わってから25年の歳月が流れていた。

村民の代表者が福澤を訪ね報告すると、福澤も、漸く重荷を下ろした心持がすると喜んだ。そして今後、村民が守るべきこととして、下げ戻しのあった日を記念日とすること、事件の書類は火災にあわぬよう祠(ほこら)のようなものに入れておくこと、小川武平は生涯村方で養うこと、という3カ条を示した。

村民は、一銭の報酬も受け取らない福澤に、せめて長沼で獲った魚を進呈しようとしたが、福澤は川魚を好まず、もし強いてくれるのなら手製の漬物などが良いというので、その後は味噌漬けを届けるようになった。

明治32年刊行の『福翁自伝』には、長沼事件をはじめ、福澤が陰日向になって支援した出来事について、一切触れられていない。最後まで内幕をさらけ出してはいけないという考えを守り抜いたのであろうか。

小川武平には、二男一女があり、早くに他家へ養子に出た二男の子が小川家を継ぐことになった。小川は、これら子孫に囲まれ、平穏な晩年を過ごして、大正4(1915)年8月17日、86歳の生涯を終えた。

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