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【福澤諭吉をめぐる人々】
小川武平

2018/10/26

  • 齋藤 秀彦(さいとう ひでひこ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

明治7(1874)年12月、千葉県の県庁に嘆願のため足繁く通っていた、同県長沼村(千葉県成田市)の小川武平(おがわぶへい)は、千葉町(千葉市)に止宿中、夜店で『学問のすゝめ』に目を止めた。宿に帰って読んでみると人民の自由や権利について分かりやすく書いてある。小川は、この先生に協力を依頼すれば、きっと力を貸してくれるだろうと、福澤諭吉を訪ねることを決心した。

直ちに上京した小川は、紹介を得て、12月15日の夕方、三田にある福澤邸の門をたたいた。福澤自らの出迎えを受け、奥の一間に案内されて、事の顚末を語った小川が、「私は無学で書くこともまずく、弁舌も下手でござりますから、思っていることを十分に人に伝えることができません」と言うと、それまで黙って聞いていた福澤は、「なに、そんなことはない。それなら今お前が言ったことを私が言ってみようか」と応じて、事件の成り行きを年月 までも間違いなく話して聞かせたという。

長沼事件

小川が奔走していた係争事件の発端は、この日から2年半ほど前に遡る。

小川の暮らす長沼村は、100戸500人ほどの村落で、田畑は狭く農耕だけでは生計が立たずに、村民は目の前に広がる三百町歩(約300ヘクタール)ある瓢箪型をした長沼で漁猟をして生活を維持していた。江戸時代より、長沼の所有権は長沼村にあったが、長沼周辺の開発が進み、村が増えてくると、その村々が長沼を共同で利用できるにしようと企てるようになった。そして、15カ村の連名で、長沼村に長沼の水路に溜まった土砂を取り除いてもらいたいと、印旛(いんば)県(後に木更津県と合併して千葉県)に訴えを起こした。水害の原因となる土砂を浚渫(しゅんせつ)するのは、長沼村の責任であり、それができぬのなら各村の共同工事として、長沼を入会地にするという算段であった。県の役人が長沼村に命じた工事の内容は、延べ10,500人を必要とする大掛かりなもので、とても長沼村だけで負担できる規模ではなかった。村民は、命令の撤回に向け陳情を重ねたが、かえって村民5名が捕らえられ、さらに役人から工事が終われば村に返すからと丸め込まれて、遂に政府が長沼を没収することを実質的に認めてしまった。小川は、長沼村の村用掛として、長沼を取り戻すべく、県庁に通っていたのである。

福澤は、話を聞いて即座に長沼村への協力を引き受け、「願書などは私が認(したた)めてやろう。しかしこの問題は必ずこちらの勝利とは請け合えぬ。また兎角(とかく)途中で立ち消えとなり易いものだから、どこまでもやり通す考えでいなければならぬ。お前がその気ならきっと力を添えてやろう」と小川に伝えた。

翌日、小川は、福澤邸を再び訪ね、福澤が立案し門下の牛場卓蔵(うしばたくぞう)が書いた願書を受け取って、これを県庁に提出した。また福澤は、これとは別に自ら筆を執って、千葉県令の柴原和(しばはらやわら)に願書が手元に届いているかを問い質す手紙を書いた(明治7年12月25日付)。その効果は、すぐに現れ、県庁から村役人に対して、出願の事件は明年早々に検分の上、処置をつけるとの申し渡しがあった。

ところが、春になり夏になっても検分はない。小川は、また上京して福澤に訴えた。福澤が長沼村民のために代筆した願書の案文は17通にも及ぶ。これに対し窓口の役人は、その度に細かいことを指摘して、小川は何度も千葉と三田とを往復せねばならなかった。福澤が、「そんなやかましいことを言うなら、この書付は福澤に頼んで書いてもらったものだと言え」と伝えると、今度は小川たちが役人に対して、しきりに福澤の名を口にするようになってしまった。これを聞いた福澤は、小川あての手紙(明治8年9月20日付)で、内幕をさらけ出しては、上手くゆくこともそれがために上手くゆかなくなると、戒めている。

一方で福澤は、県令の柴原が上京すると直接面会して長沼の事情を述べ、また書簡にてやりとりをするなど、側面からも長沼村を支援し続けた。それらの甲斐あって、明治9(1876)年7月10日、県令から、沼全部を5年間、長沼村に貸し渡すから、相当の借地料を納めるようにという達しがあった。沼の所有権は政府が持ったままであるが、専有権は長沼村に戻ったことになり、一応の決着をみたことになる。

小川が、報告のため上京し、福澤邸に駆け込むと、福澤はその時、米を搗いているところで、杵を止めて鉢巻きの手ぬぐいを振って喜んだという。

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