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【福澤諭吉をめぐる人々】
ドクトルチャンブルスとドクトルジョンソン

2018/01/01

ドクトルジョンソン

一方、「ドクトルジョンソン」とは、Edmund Charles Johnson で、1822年生まれ、福澤と会ったのは40歳になる年である。

ジョンソンは、兄が外科医をしていたセント・ジョージズ病院で学んで医師となった。しかし、22歳の時に、盲目のクランボーン子爵の旅行に随行したことが生涯の転機になる。この旅行では、ヨーロッパの主な盲学校を訪問して廻ったのであったが、帰国後は、医師としての診療活動に戻らずに、視覚障害者や聴覚障害者の福祉に生涯を捧げたのである。

例えば、ロンドンの南部サザークにある盲学校London School for theIndigent Blind の運営に携わっただけでなく、視覚障害者と聴覚障害者のための王立委員会の委員を務めたり、幾つかの施設の運営委員会にも関わったりもしている。また、1878年に、盲人の為の学会がパリで開催された際には、その副会頭も務めた。

このように、ジョンソンは実際の学校の運営や教育の充実に尽力した一方で、著作も残している。

『触ってわかる印刷文字』(TangibleTypography)は1853年に出版された点字表記法の概説書で、主な表記法それぞれについて、厚手の用紙に打たれた点字の実例を添えて説明している。

1855年には、『視覚障害者への音楽教育』(An Inquiry into the Musical Instruction of the Blind)を出版している。これは、フランスやスペインの盲学校で行われている音楽教育を視察してまとめたもので、視覚障害者への音楽教育の意義等を述べるだけでなく、楽譜をどのように表記するか、普通の楽譜と点字表記の楽譜を対比しながら示している。

ジョンソンは、1895年に亡くなったが、この時の訃報は、彼の独自性を良く示している。セント・ジョージズ病院の病院報は、「(その死は)わが道を貫いたひとりのセント・ジョージズ・マンを奪い去った」という書き出しで報じた。また、医学雑誌のランセ ットは「ずっと前に専門の診療は辞めて、盲人と聾啞者のおかれた状況の改善に尽力する唯一の医師であった」という書き出しで追悼したのであった。

福澤の視察

現地での福澤の行程は、『西航記』に詳しい。そこで、2人に関係する記述を見てみよう。

「ドクトルチャンブルスと共にSaintMaryʼs Hospital に行き、帰途チャンブルスに過(よぎ)り、茶を飲む」(現地暦5月11日)
「ドクトルチャンブルスと共にキングスコルレージ学校に至り、夫(それ)より盲啞院に行き、ドクトルジョンソンを見る」(5月19日)
「ドクトルジョンソンと共にショーロジ病院に行き、帰途ドクトルジョンソンと共に、養啞院、養癲院に行く」(5月20日)

チェンバースは、福澤らを自らが勤務するセント・メアリーズ病院に案内した。病院と附属の医学校で3時間以上見学をしている。

翌週案内したキングス・コレッジ・スクールは、キングス・コレッジの初等中等教育を担う学校で、当時は大学と同じ建物にあった。つまり、福澤は小中学生から大学生までの一貫教育の様子を見学したわけである。

そして、チェンバースがジョンソンを紹介してくれて、その案内で「養盲院」、「養啞院」、「養癲院」を見学することになった。「養癲院」とは精神病院のことで、当時患者の生活環境に配慮した改革を行って注目を集めていたベツレム病院である。

養盲院では、生徒達の音楽の演奏を聴いたり、点字による教育の様子を見ると共に、生計を立てられるようになるための、すなわち手に職を付けるための教育の様子も見ている。

養啞院では、発声の方法を学ぶ様子、相手の口の動きから音を読み取る読唇術を学ぶ様子などを視察してその様子を書き留めたのであるが、更に福澤は、こう記している。

「一女子あり。余之(これ)に問曰(とうていわく)、how do you do 声に応じて答て曰(いわく)、very well thank you 又問曰、howlong have you been in this school 答曰、ten years その敏此(びんかく)の如(ごと)し。」

単に説明を聞くだけでなく、その生徒の中に入り込んで直に会話をしてその教育の成果を確認している姿が浮かんでくる。

ベツレム病院署名簿の福澤とドクトルジョンソンのサイン
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