三田評論ONLINE

【福澤諭吉をめぐる人々】
ドクトルチャンブルスとドクトルジョンソン

2018/01/01

ドクトルチャンブルス
  • 山内 慶太(やまうち けいた)

    慶應義塾大学看護医療学部教授

欧州事情探索での交流

福澤諭吉にとって2度目の洋行である文久2(1862)年の渡欧は大きな意味を持つものであった。良き理解者であった中津藩の島津祐太郎(すけたろう)にロンドンから送った書簡では、自分の心情を次のように記している。

「一見瞭然と申(もうす)には参りがたく候得共(そうらえども)、此(これ)まで書物上にて取調候とは百聞不若一見(ひゃくぶんいっけんにしかず)の訳にて、大いに益を得候(えそうろう)事も多く御座候(ござそうろう)。」

また、晩年、自分の著作をまとめた時に、『福澤全集緒言』で、当時の心境を振り返って次のように記した。

「その他病院、貧院、盲啞院、癲狂院、博物館、博覧会等目に観て新奇ならざるものなく、その由来その効用を聞て心酔せざるものなし。(略)その驚くと共に之(これ)を羨み、之を我日本国にも実行せんとの野心は自から禁じて禁ず可(べ)からず。」

この渡欧は、幕府の遣欧使節の一員としてのものであったが、福澤にとっては、日本で原書を読んだだけではわからない社会の様々な仕組みをより具体的に理解する貴重な機会であった。各地では、様々な視察を通じて現地の人との出会いがあった。その人達の親切と、曖昧なものを明確にしたいと質問を重ねる福澤らの強い意思によって、『西洋事情』等の著作につながる知見を得ることが出来たのである。

滞在地の中で一番長かったのは英国のロンドンで、新暦で4月30日から6月13日まで滞在した。その間の行程は福澤自身の『西航記』に詳しいが、そこに2人の英国人の名が、しかも2日ずつ出てくる。それが「ドクトルチャンブルス」と「ドクトルジョンソン」 である。

ドクトルチャンブルス

「ドクトルチャンブルス」とは、Thomas King Chambers で1817年生まれ、当時44歳である。

ロンドン生まれで、オックスフォード大学のクライスト・チャーチで学んだ後に、ロンドンのハイドパーク・コーナーにあったセント・ジョージズ病院で医学を学んだ。栄養と消化を専門とする内科医で、開院間もないセント・メアリーズ病院に最初の内科医の1人として勤務していた。

チェンバースは後に、下肢の血管の障害で、1864年には左脚を、更に78年には右脚の切断手術を受けることになったため、医師としての活躍の期間はそれほど長くはない。しかし、福澤が会った時期は、一番脂が乗っている時期でもあった。

1859年に、プリンス・オブ・ウェールズ(皇太子)、後のエドワード7世のイタリア、スペインへの旅行に随行していることは、医師としてのチェンバースの評価を端的に示していよう。また、英国の代表的な医学雑誌である、ブリティッシュ・メディカルジャーナル等に掲載された講義録や論文も大半が1850年代後半から62、3年頃のものである。

しかし、彼の特長は、医師としての技量に留まらない点にもあった。

1889年に亡くなった時の追悼記事等を見ると、文学や芸術への造詣が深く、深い教養と洗練された品位を感じさせるような人柄が浮かんでくる。また、医学教育への関心が高く、郊外に退いてからも、英国の医師の質と資格を担保する組織である医事評議会で、オックスフォード大学の代表として、その責を果たすと共に、同大における医学の地位の向上にも尽力した。更に女性の医学教育に多大な貢献をした人でもあった。当時男性だけだった医師への門戸を女性にも拡げる為の活動を、その最初から一貫して支持し、1874年に作られたロンドン女子医学校についても応援し続けたという。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事