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【福澤諭吉をめぐる人々】
西郷隆盛

2017/11/11

敬天愛人(けいてんあいじん)

福澤の運動も功を奏せず、城山の露と消えた西郷の立場を擁護する一篇の論説が『明治十年丁丑公論』である。政府の施政方針の誤りから今回の大乱を巻き起こし、日本に稀なる一人の功臣をむざむざ死地に陥れたことを述べて、政府を糾弾したこの論説は、当時の出版条例の下では発表できず、福澤はこれを秘蔵したまま、みだりに人には示さなかった。のちに明治34年になって「瘠我慢の説」を「時事新報」に発表したとき、福澤も初めて昔これを書いたことを思い出し、死病の床で発表を承諾し、実に執筆のときから24年を経て初めて世に出された。

福澤は、この緒言で、「敢えて西郷を擁護しようとするものではないが、この一篇を草してこれを公論と名づけたのは、人のために私するのでなく、一国の公平を期するからである。後世の子孫のために今日の実況を書きのこして、日本国民の抵抗の精神を保存し、その気脈を絶たないようにしたいと思うのである」と記している。

西郷が城山に死して6年後の明治16年、西郷銅像発起人総代であった福澤の建設趣意の文では、「明治政府維新の大事業に於ては、其誠忠、其功労、天下に之を争ふ可からず。蓋し翁の至誠終始其心に於て恥入なきを信ず。吾輩の最も欽慕(きんぼ)する所なり」と西郷の偉業を称賛している。しかし、この時の銅像建設は実現せず、明治31年12月に現在の上野公園の銅像が建てられたが、福澤はこれには関係していない。

西郷の座右の銘に「敬天愛人」という言葉がある。これは、「道は天地自然の物にして、人は之を行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も、同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」と解釈される。様々な苦難や挫折を乗り越え、波乱万丈の人生を送ったラストサムライ西郷の想いが込められている言葉である。

西郷と福澤。一面識の交わりもない2人だが、自由平等の思想、抵抗の精神、未来を見据える目は、相通じるものがあった。そして同じような境遇の中、それぞれの運命を真っ直ぐに生き、互いの道で日本のあるべき姿を命がけで追い続けた、正に「同志」であったと言えるだろう。

『明治十年丁丑公論』表紙(慶應義塾福澤研究センター蔵)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです

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