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【福澤諭吉をめぐる人々】
西郷隆盛

2017/11/11

廃藩置県

日本の近代史上、最も重大な改革として挙げられるのが明治4(1871)年の廃藩置県である。そしてこの廃藩置県こそが西郷と福澤を深く結びつけた出来事であった。

廃藩の案は発令の2年前に出来上がっていたらしいが、これを断行する責任者がいなかった。これを断行できるのは「官位も金もいらぬこの始末に困る人ならでは国家の大業は成し得られぬ」(『南洲翁遺訓』)と語る西郷ひとりだった。福澤も『丁丑公論』の中で、「当 時若(も)し西郷の一諾なくんばこの大挙も容易に成を期すべからざるや明なり」と語っている。

廃藩置県とは大名から土地所有権と領民を奪う行為であり、大名や藩士の大反発が予想された。これを実行するために、鹿児島に戻った西郷が呼ばれ、親兵を設置し兵力を背景として実現された。もとより廃藩置県を断行すべきという持論を持っていた福澤は歓喜した。「門閥制度は親の仇」と豪語する福澤にとって、何百年続いていた封建制度がこの世からなくなったのである。福澤は後に、「当時吾々同友は、三五相会すれば則ち相祝し、新政府のこの盛事を見たる上は死するも憾(うら)みなしと絶叫したるものなり」(『福翁百余話』)とその喜びを記している。

明治6年の政変

かくして廃藩置県は発令されたが、この重大改革は発令だけでは役に立たない。少なくともその後1、2年間は、その励行と監視が必要である。この廃藩後の財務整理に最も必要な大蔵卿の大久保利通らは、西郷に憎まれ役を押し付け、岩倉使節団として欧米に外遊に出かけてしまう。しかし、この使節団不在の2年間において、西郷の指揮の下、留守政府は学制、徴兵令、地租改正等の様々な改革に取り組み、日本は着実に近代化への道を進んでいくこ とになる。

ちょうどこの留守内閣の期間である明治5(1872)年、『学問のすゝめ』初編が刊行される。福澤は、最高の位記を返上している西郷という「人の上の人とならない」人物の登場を心から喜び、西郷を革新的政治家として彼の政治手腕による民族の近代化、人民平等化への期待を寄せていた。

しかしながら、岩倉使節団が帰国後、西郷が唱える平和的な使節派遣論(遣韓論)に異議を唱える形で、留守政府と外遊組との間に藩閥の主導権争いが起こり、これに憤慨した西郷はすべての職を辞し、鹿児島に帰郷することとなる。

「政府へ尋問の筋これあり」

明治6年の政変を経て鹿児島に下野した西郷は、明治7(1874)年、私学校を創設した。銃隊学校と砲隊学校を本校としたが、翌年の春には分校も建設され、城下に12、県下に136もの分校がつくられることになった。私学校では主に軍事訓練や漢文の素読などが行われ、壮年を対象とした郷中教育ともいえるものだった。また、5人の生徒をフランスに留学させており、西洋文明も積極的に取り入れていた。西洋列強のアジア進出に危機感を感じて、外国との紛争を想定し、国難にあたる兵士の養育が当初の目的であったという。

明治9(1876)年、不平士族の反乱が相次いだ。全国の不平士族は、西郷の決起を期待していた。そして私学校の生徒の暴発をきっかけに、ついに明治10(1877)年2月、「今般政府へ尋問の筋有之……」(『西南記伝』)と、大義名分を述べて、西郷をはじめ総員13,000人が鹿児島を出発し、日本最後の内戦・西南戦争がはじまる。

この報に接した福澤は、「維新第一の功臣たる西郷にむざむざ賊名を付してこれを討伐するとは、まことに忍び難いところであるから、しばらく征討令を発することをやめ、彼が政府に尋問の筋があるというならその申し条を確かめ、然る上で何分の処置に及ばれたい」との趣旨で、一篇の建白書を認め、旧中津藩士族の連署で京都の行在所(あんざいしょ)に捧呈させようとした。ところが船便の遅れなどにより、これが届く前に征討令が出されてしまう。

やがて兵器、兵員に勝る政府軍が次第に薩軍を圧倒し、9月、鹿児島の城山に立て籠もった西郷達に政府軍は総攻撃をかけ、西郷の自決により西南戦争は終結する(享年51)。

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