三田評論ONLINE

【福澤諭吉をめぐる人々】
西郷隆盛

2017/11/11

西郷隆盛像(鹿児島市)
  • 三輪 洋資(みわ ようすけ)

    慶應義塾横浜初等部教諭

福澤諭吉と西郷隆盛が顔を合わせたという記録は残されていない。しかしながら、当時、言論の取り締まりの中、福澤はなぜ危険を顧みず、西南戦争により逆賊とされてしまった西郷を擁護する『明治十年丁丑(ていちゅう)公論』なる一冊子を記したのであろうか。一方の西郷は、晩年、故郷の鹿児島で暮らしていたが、従弟の大山巌に頼んで、福澤の著書を東京から取り寄せて読んでいる。西郷はその書簡の中で、「(福澤の著書を読んで)じつに目が覚める思いです。昔から、さまざまな賢人が、いろいろと国防策を書いていますが、福澤の右に出る者はいません。これからも、こういう本だけは、東京から送ってください」(明治7年12月11日の書簡、現代語訳は以下筆者による)と語っている。福澤も西郷が自分の著書を読んでくれていることを聞いて、喜んでいたそうである。さらに、西郷は薩摩から来ていた子弟達に慶應義塾に入学することを勧め、自ら保証人として名を掲げている。

一面識もない2人が互いに引き合うものは、何だったのであろうか。

西郷の生い立ち

西郷隆盛(通称・吉之助)は、文政10(1827)年、鹿児島城下の貧乏士族が多く住む下加治屋(しもかじや)町で、御小姓与勘定方小頭(おこしょうぐみかんじょうかたこがしら) 西郷吉兵衛の長男として生まれた。御小姓与は薩摩藩の士分の家格である城下士(じょうかし)に属すが、城下士の中では下から2番目の低い家格であった。それに加え、隆盛の下には弟と妹がそれぞれ3人ずつおり、大家族の生活は貧窮を極めた。冬の寒い時期も兄弟姉妹は1枚の布団を奪い合い、食事の時はいつも隆盛が弟と妹に食べ物を譲り、腹いっぱい食事をしたことがなかったという。

そんな隆盛が13歳の秋、上士の友達に喧嘩を吹っかけられ、不運にもその友達の刀身が隆盛の右腕に切り込んでしまう。この時の怪我がもとで、隆盛の腕は元通りには動かなくなってしまう。この悲劇により隆盛の武術の道は閉ざされ、文官の道を歩むことになる。

福澤と同じく下士の家に生まれた西郷は、大家族での貧しい暮らしや、右腕の怪我による挫折などによって、贅沢を好まず逆境に耐え、弱者を思いやる優しさを身につけていった。そして2人は、異なる道で封建制度に対して戦っていくことになる。

郷中(ごじゅう)教育

薩摩藩は、明治維新という近代日本の幕開けに際して、西郷をはじめ多くの人材を輩出した。その背景には、「人をもって城となす」という薩摩藩の伝統的な考え方、そして「郷中教育」という異年齢集団における独特の青少年教育のしくみがあった。この教育方法は、江戸時代250年の間に次第に体系を整え、戦前鹿児島県の学舎教育までその伝統が受け継がれていった。

地域社会である郷中が自発的に行った半学半教の集団教育であるところに特徴がある。また、他藩との大きな違いは、薩摩には伝統的に自由独立の気風があり、藩士の家格に上下の差はあっても、この教育の場では全く平等であったという点にある。

郷中とは地域の結社で、薩摩の青少年は年齢別に稚児(ちご)組、二才(にせ)組、長老(おせんし)に分けられて、武道・学問はもちろん、生活全般にわたり、集団的共同活動を営んでいた。そのモットーとするところは、質実剛健、鍛練主義であり、若者は精神的、肉体的に郷中教育の中で強い封建武士となるように鍛えられていた。西郷も二才たちの指導を受け、信義を重んじ、武士道の基本を叩き込まれ、20歳のときにリーダーである二才頭(にせがしら)となり、その名は城下各郷中に知れ渡っていった。二才頭はただ単に二才衆のリーダーというだけではなく、郷中全体の指導者でもあった。西郷は福澤より7歳年上であり、この10年後、福澤は22歳で適塾の塾長となる。時と場所は異なるが、西郷と福澤はともに先導者の立場で、日本の未来の姿を仲間と語り合っていたのだろう。

カテゴリ
三田評論のコーナー

本誌を購入する

関連コンテンツ

最新記事