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【三人閑談】
小幡篤次郎を読む

2022/09/06

「吾党」を背負う小幡

大久保 小幡と福澤の関係がだいぶ明らかになってきましたが、同時に小幡は実務の面でも慶應義塾を支え、重要な役割を果たしていきます。

西澤 私は、小幡は福澤とはまた別に、明治の近代社会をどうつくっていくべきかを考えていたと思います。彼の封建制から郡県制にどう変わっていくのかという視点は、単に徳川からの変化ではなく、六百年来の変化を考える中で封建から郡県への転換をどうしていくのかという関心だと思います。

その中で、慶應義塾で何を学生たちと一緒に読み、議論すべきかを考え、トクヴィル、あるいはミル、それから海外の宗教論などを翻訳・紹介してきた。小幡は学生を教え、一緒に議論しながら、自分の著作にまとめていったのではないかと思います。

先ほど述べた開成所のエピソードの一方で、学生たちにとって福澤の授業は非常に簡単で分かりやすかった、でも、小幡の授業はすごく難しかったという回想もあります。おそらく開成所での授業は、技術を教えるものであったけれど、慶應義塾ではそうではない。小幡は日本語訳で読んでも、原書と同じだけの情報量を得られるようにしたかった。トクヴィルなりミルなりから得た、概念や理念を伝えたかったのだろうと思います。そのためベースが分かっていないと理解できないと思うところを意訳したり、省いたりしたのではないでしょうか。

また、小幡の中では「吾党(わがとう)」という意識がすごく強くあり、福澤とは別の考えを持っているのだけれど、一つの大きな仲間内であるという意識は持っていたのだと思います。そして、だんだんその吾党のために、小幡が背負う部分が多くなっていってしまった。明治10年以降、西南戦争があり、義塾の経営が傾いていくと、義塾を維持していかなければという気持ちが小幡は福澤よりも強く、その仕事がどんどん増えていった。

福澤は亡くなるまで本を出し続けますが、小幡は明治21年を最後に、単行本は出していない。また交詢社は福澤が書いているように、発案も小幡であると思いますが、その実務は彼で、「時事新報」にしても、福澤がどれだけ記事の校閲をしたかは怪しいし、小幡の負担はどんどん大きくなっていったのではないかと思います。その結果、福澤のサポート役という印象が強くなってしまい、伝記も著作集も出なかったのではないでしょうか。小幡がいなければ慶應義塾の業績はないと評価されているように、小幡がいたからこそ、続けてこられたという部分は、やはりすごく大きいと思います。

慶應義塾は『慶應義塾学事及会計報告』を明治23年から出し始めます。これも小幡が緒言を書いています。義塾がこれだけ大きくなってしまったからには、義塾がどういう教育をしているかを世間の人たちに知らせなければいけないし、会計報告もきちんとしないと寄付金も集まらないと言っています。そういったことを伝えるのも小幡の大きな役割でした。

なぜ地方自治に関心を持ったか

西澤 今回、小幡の著作集をつくる際に思ったことは、明治10年頃までの小幡の著作、翻訳活動が福澤に与えた影響は非常に強いし、小幡は福澤に言われてやっていたわけではなく、自分なりの関心で、どういうものを翻訳すべきかと考えていたのだということです。その関心の一つは私も地方自治の問題であったと思います。そして、なぜ小幡が地方自治に関心を持ったかと言えば、中津藩の上士階級に生まれたということが大きかったと思います。

実際に版籍奉還以後、廃藩置県までの中津藩の行政を担った人たちは小幡の仲間だった人たちで、税制から何からすべてが変わっていく中で、現場でどう対応するかが重要な課題であると小幡はわかっていた。だから彼には、封建制から郡県制へどう変えていくのか、ということが基本にある。そこで地方自治への関心が強くなっていったのではないかと思います。

福澤の場合、早くに江戸に出てきており、福澤の周りの中津藩の人たちは、実際に版籍奉還から廃藩置県までの混乱を収拾しなければいけない立場にはなかった。福澤は小幡が訳したりまとめたものを見て「そういうことも問題なのだ」と思い、自分の著作にそれを取り入れるという構造があるのではないかと思います。

そこを明らかにしないと福澤の業績もわからないし、明治の変革期に実際に行政にいた人たちが何を考え、どう新しい社会をつくっていったのか、というところも見えなくなってしまうかと思うのです。

大久保 その通りですね。ところで、明治13年に交詢社ができますが、川﨑さんは交詢社の研究もなさっています。交詢社はどのような目的で創設され、そのなかで小幡はいかなる役割を果たしたのでしょうか。

川﨑 交詢社は、最初の1、2年は官僚から政治家、思想家など、あらゆる層の人たちが入っている。それから地域も非常に多岐にわたり、慶應出身者が中心につくった団体だけど、それだけではなく、政府に対抗する一つの言論機関として位置付けていたのではないかと見ています。

ただ、明治14年の政変以前は、福澤が井上馨、伊藤博文から新聞の相談を受けるような時期ですから、福澤としては言ってみれば、旧体制側ではない政治家たちを含んだ一つの言論機関をつくっていきたいと思っていた。それは福澤がずっと『西洋事情』以降唱えてきた、文明化の象徴としての議論を中心に置いた存在として位置付けるということです。

小幡がどう動いたかはっきりとは見えないのですが、とにかく小幡を軸にして、荘田平五郎、矢野文雄、馬場辰猪らのメンバーが議論をしながら交詢社をつくり上げていった。外部から見た場合、やはりいくら違うといっても、一つの政治「的」団体としてみなされてしまうのは当然の成り行きだと思う。小幡自身が中核にいて指導していく中で、『上木自由之論』以降はトクヴィルが思想的に一つの支えになっているのではないかという感じがします。

ところでギゾーやバックルについて小幡は何か述べていましたか?

大久保 福澤はギゾー、バックルの文明史、文明論に関心があったのに対し、小幡はむしろミルやトクヴィル、つまり言論の自由や地方自治などに関心を向けた、ということになるでしょうか。

川﨑 そこは何か2人の違いを見いだす手掛かりがあるのではないかなという感じがします。

大久保 また、小幡がミルの『宗教三論』を翻訳していることも興味深いですね。そのあたりから、小幡自身の文明観や構想が見えてくる可能性があるのかもしれません。

西澤 『宗教三論』には旧中津藩士の桑名豊山という校閲者がいます。幕末、慶応年間に京都留守居家老をやっていて、その後、版籍奉還から廃藩置県まで中津藩の大参事を務め、廃藩後に慶應の中で小幡のそばで小幡の講義のノートを取っていた、儒学者ともいえる人物です。のちに彼は明治11年11月より各郡の郡長として、地方行政に携わっていきます。この桑名豊山がなぜ『宗教三論』の校閲者になったのか。

中津で右に出る者がいないほど儒学の素養はありますが、その人がミルの英文を読んで小幡の訳を直せたとは思えない。なぜ桑名に校閲をさせたのかというところに、小幡が『宗教三論』を誰に伝えたいと思ったかが見えるのではないかと思うのです。

大久保 具体的にはどのような読者層を念頭に置いていたのでしょうか。

西澤 小幡は継続して地方自治に関心を持っていて、しかも福澤より政治的な関心、政治体制に対する関心は強かったのではないかと思います。だから、交詢社も一つの政党だと捉えられてもいいと考え、私擬憲法案を出していったのではないか。

一方で、交詢社の仲間を紹介しあったり、情報交換のネットワークの核に小幡がなっています。小幡にと って交詢社は一つの世務諮詢、世の中の情報を交換し合う機関でもあった。特に中央と地方の情報量の差をなくそうという気持ちが強かったのではないか。やはり政治のあり方を考えた時に、都会でも地方でも、同じ情報量を持つことが重要であると思ったのだと思います。

そう考えると、『宗教三論』も中央の学者だけではなくて、新しい政治体制が根付いていくために、そのベースにあるものを、より多くの人に理解してもらいたいという意図があったのではないか。そのための仲介役として、儒学の素養があり、解釈の橋渡しができることを期待して、豊山に読ませたのではないかと思っています。

著作集刊行の意義

大久保 川﨑さんは小幡だけではなく、『馬場辰猪全集』『植木枝盛集』『福澤諭吉書簡集』(岩波書店)、『津田真道全集』(みすず書房)、『馬場辰猪日記と遺稿』(慶應義塾大学出版会)など、同時代の人物の著作集や全集の編集と刊行に広く携わられています。今、150年前の彼らの著作集を刊行する意義をどのように考えられていますか。

川﨑 正直なところ、困っているのですが、私が関係した著作集は全く売れない(笑)。

しかし、売れないからこそ資料として残さなければいけない。この機会を逃したら、恐らく二度と小幡は日の目を見ないと思います。少部数でも、とにかく活字にして誰でも読めるようにして、その所在を明らかにしておくことが重要です。

西澤 そうですね。福澤先生は面倒くさいことは皆、小幡に押し付けているのではないかとも思えて、ずるいなと思っています(笑)。

ただ小幡の著作、特に明治10年ぐらいまでの著作はとても重要です。それは小幡を知ることだけではなく、その時期に日本に訪れていた変化がどんなものだったかを知るためにです。それを知ってもらうことに『著作集』刊行の一番の意義があると思います。

大久保 これまで、時代の中で傑出した思想家や政治家を顕彰する形で、全集や著作集が編まれてきました。しかし、明治維新から150年が経った今日、個人の顕彰よりも、むしろその時代に何があったのか、できる限り資料を残していくことが重んじられるようになっています。

今回の『著作集』も、小幡篤次郎の顕彰ではなく、むしろ当時の人々がどのように生きていたのかを示す歴史的な資料として、貴重な価値があります。こうした著作集の編纂こそ、明治日本の誕生をより歴史学的かつ客観的に検討するために重要であると考えます。

さらに近年、海外の学者による明治維新研究が盛んです。小幡に関しても、エジプト・カイロ大学の学者であるハルブ・ハサンさんなどによって研究が進められています。

歴史的な研究に寄与する重要な資料を残していく営みは、世界史の枠組みを問い直すという観点からも、きわめて貴重な意義をもちます。

川﨑 明治150年という話がありましたが、明治100年の時は政府がイケイケドンドンで、一種の「国威発揚」のような、言ってみれば偉人の顕彰だったわけです。今はそうではなく、しっかりと批判対象として資料を見直すということですね。そして、それに基づいた出版活動というのは出版文化論の観点から見ても非常に大事です。その一つとして小幡の著作集が取り上げられたことは非常に嬉しく思います。

小幡の場合、福澤のように誰もが知っているような人ではないけれど、とにかくこの全5巻の『著作集』の刊行を通して、基礎的な小幡篤次郎像というものが確立されればよいなと思っています。

大久保 有り難うございました。多くの読者の方が小幡に少しでも興味を持ってくださり、『著作集』を手にとっていただければと願っています。

(2022年6月22日、三田キャンパスにて収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。

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