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【三人閑談】
小幡篤次郎を読む

2022/09/06

  • 川﨑 勝(かわさき まさる)

    南山大学経済学部元教授。福澤諭吉協会理事。『小幡篤次郎著作集』刊行委員。法政大学大学院社会科学研究科博士課程満期退学。他に『馬場辰猪全集』『福澤諭吉書簡集』『津田真道全集』等に携わる。

  • 西澤 直子(にしざわ なおこ)

    慶應義塾福澤研究センター教授。『小幡篤次郎著作集』編集委員。慶應義塾大学大学院文学研究科修了。専門は福澤諭吉の家族観・女性観を中心とする近代日本女性史・家族史。

  • 大久保 健晴(おおくぼ たけはる)

    慶應義塾大学法学部教授。『小幡篤次郎著作集』編集委員。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は東洋政治思想史・比較政治思想。

中津藩上士の子として生まれる

大久保 本年2022年の3月末から慶應義塾と福澤諭吉協会による『小幡篤次郎著作集』(全5巻予定)の刊行が始まりました。

小幡篤次郎は徳川末期より福澤諭吉のもとで学び、1890年、慶應義塾の塾長に就任し、福澤歿後には塾頭をつとめました。塾外でも東京学士院会員や貴族院議員など歴任し、明治日本の文明化に向けて多大な貢献をしています。

よく知られるように、『学問のすゝめ』初編は福澤諭吉とともに小幡篤次郎が共著者となっています。

しかし一般には、小幡篤次郎の名前を聞いたことはあっても、どのような人物なのかよく知らない、という方が多いのではないでしょうか。

そこで本日は私が進行役をつとめつつ、企画の立案者の1人である川﨑勝さん、『著作集』の編集に携われている西澤直子さんとともに、小幡篤次郎の人となりや魅力について語り合いたいと思います。

まず小幡篤次郎の生涯からお聞きしたいと思います。小幡篤次郎は天保13(1842)年、中津に生まれたということですね。

西澤 福澤諭吉と同様、中津藩士の子として生まれ、福澤は西暦では1835年生まれですので、7、8歳年下となります。

福澤は、安政5(1858)年に江戸に出てきて、中津藩の中屋敷にあった塾で蘭学を教え始め、アメリカ、ヨーロッパを見る機会を得て、日本にとっての急務は、人材の育成であると考えるようになりました。そこで塾に優秀な若者を誘って、共に学び合うような場にしたいと考えました。そのときはまだ「社中」という言葉は使っていませんが、後の慶應義塾社中と言われるような仲間ですね。自分の故郷である中津に、いい人材はいないかと探しに行き、他の5人とともにスカウトされたのが小幡篤次郎です。元治元(1864)年のことでした。

江戸に出て福澤の塾に入り、それ以降、小幡は福澤を助け、長い間、慶應義塾の中で中心的な役割を果たします。

また、翻訳によって、西洋の文明を日本に紹介し、あるいは明治9年にできた東京師範学校中学師範科の設立に携わり、慶應義塾の塾長も務め、貴族院議員としても様々な議案に関わるなど活躍します。

川﨑 私は中津のことは全く知らないので、西澤さんに教えていただきたいのです。小幡家は上士で福澤家は下士ですが、そのランクはどれくらい離れていたのでしょうか。それから、中津藩には前野良沢がいたわけで、早くから蘭学が盛んでした。その学問的影響は福澤や小幡にどれくらいあったのでしょうか。

西澤 福澤と小幡篤次郎の父は同じ中津藩士ということになりますが、藩の中での立場は、福澤家は下士で十三石二人扶持、小幡家は上士で二百石取りの供番(ともばん)という差があります。

福澤は後に明治10年の『旧藩情』の中で、中津藩は上士と下士で非常に大きな格差があって、生活の水準も違い、教育面でも上士と下士では読んでいる書物も異なると述べています。

ただし小幡篤次郎は上士階級には生まれたのですが、天保年間に上士の間で対立が起こり、その時に小幡の父は、争いに敗れて隠居せざるを得なくなってしまったという事情があります。篤次郎が生まれた時には、すでに養子が小幡家を嗣(つ)いでいて、彼は長男として生まれながら、「篤次郎」という名前が示すように次男の扱いで、跡取りではありませんでした。

また、福澤は『福翁自伝』の中で中津に対して、ひとつのイメージを創出しているところがあると思います。例えば分限帳という位の高い順に書かれている、藩士の名簿のようなものがありますが、下士といっても、福澤家の名前は、分限帳全体の真ん中より前に出てくる。

つまり、上士の3倍ぐらい下士がいるわけで、福澤と同じ十三石二人扶持ぐらいの藩士がたくさんいる。ですから、二百石取りというのは位がすごく高いとも言えますが、一方でものすごく差があるかというと、福澤クラスの人が多いので、福澤が最下層で小幡が上層という捉え方をすると少し違うのかなと思います。

また、中津の蘭学の伝統ですが、前野良沢はたぶん江戸詰めで中津にはいなかったのではないかと思いますし、脈々と一つの蘭学の系統があったと捉えるのは難しいところです。しかし、歴代藩主の中に蘭癖(らんぺき)と言われるような、オランダに対して強い関心を持っている人たちがいて、例えばシーボルトの日記に一番多く登場する日本人は五代奥平昌高(1781~1855)です。薩摩の島津重豪(しげひで)の息子ですが、中津辞書といわれる日本最初の和蘭辞書、また蘭和辞書もつくらせています。

上京して福澤塾へ

大久保 福澤諭吉は嘉永7(1854)年、中津から長崎に出て、さらに安政5(1858)年より江戸の奥平家中屋敷内に蘭学塾を開きます。近年の研究では、その背後に藩儒・野本真城ら中津藩内の改革派による助力が存在したと指摘されます。その中の一人に、小幡の父、篤蔵もいました。ただ、このことについて、『福翁自伝』では触れられていませんね。

西澤 以前から野田秋生氏が紹介されていますが、小幡は野本真城(白巌)の塾で学んでいました。私が見ている資料は『鶯栖園遺稿』という、渡辺重石丸(いかりまろ)という野本塾に通っていた人が書いたもので、断片的ですが小幡がどう学んでいたかが書かれているものと、もう一つ、やはり同門の八条半坡(はちじょうはんぱ)という人の日記です。

渡辺重石丸は、野本塾で学んでいた人は野本派と呼ばれ、藩内である種、独特の雰囲気を醸し出しているグループだったと書いていますが、野本塾を中心としたネットワークが福澤にも小幡にも大きな影響を与えていたのではないかと思います。

八条半坡の日記を見ると、野本の塾のネットワークが藩内の、特に兵制改革、軍制改革で中心的な役割を担っている人たちと重なっています。西洋の軍備も導入するような改革を志向している人たちです。兄の三之助のほうが強かったかと思いますが、福澤もそこと接点があったと思います。小幡が福澤を最初にがどこで意識したかを考えるとそのあたりにカギがありそうです。

元治元年に小幡が他の五名の中津藩士、自分の弟(仁三郎〔甚三郎〕)や仲間と一緒に江戸に出てきて、福澤のところで初めて英学を学び始めたことは事実ですが、それより前に洋学や西洋に関する関心が全くなかったかというと、かなり疑問だと思います。福澤から一方的に言われて小幡が洋学を始めたわけではなく、洋学には関心があったのだけれど、江戸に行くのに迷いがあったのでしょう。

大久保 当時、小幡は20歳を超えていて、藩校の進脩館で教頭を務めていました。そこに福澤の誘いがあったということですね。

西澤 小幡自身が語っているのは、福澤が中津で江戸に行き自身のサポートをしてくれる人を探しているという話を聞いた。ただ、自分は事情があり、江戸には行きたくなかったので、福澤に会わないように避けていた。しかし、あるとき偶然会ってしまい、それで江戸に行くことになったと。ただもともと父篤蔵の弟竹下郁蔵を介して、幼い頃から福澤とは知り合いで、『西洋事情』も本になる前に読んでいたと述べています。

福澤のほうは、小幡が行きたくないと言っているのを聞いて、次男だから養子先を見つけなければいけない、江戸に行けば養子先はいくらでもあるからと、小幡だけでなく小幡の母親にもそう言って説得した、自分は誘拐してきたようなものである、と書いています。

小幡篤次郎(左)と松山棟庵 慶応3(1867)年頃(慶應義塾福澤研究センター蔵)

小幡の語学の能力

大久保 小幡は江戸に出てから福澤の塾で英学を学び、その後、約3年で開成所の教授手伝に就きます。川﨑さんは、蕃所調所ならびに開成所のことを研究されていますが、小幡はどのようにして英語を習得したのでしょうか。

川﨑 開成所での教育内容についての公的な記録はほとんどないんですね。ただ、小幡は「学術抜群」と評されてすぐに第一等教授並に繰上げられるのだから、すでに福澤のところで実力をつけていたのでしょう。あそこにいた人は語学力がすぐついてしまうという不思議な能力がある(笑)。今の教育制度では全くわからない。そこに外国人教師がいるわけでもないのに、皆、ちゃんとした語学力がついていく。それは英語だけではなく、ドイツ語、フランス語もしかりです。明治の人たちは文法を学ぶのでもなければ会話をするでもなく、とにかく原書をいきなり読んで理解してしまうという、今では考えられない習得のシステムがあったようです。

後のことですが、札幌農学校だって講義は英語でテキストを輪読するだけですよね。私が推察するには、藩校は皆、漢文の素読が基本で、ただ繰り返し読んでいる中で自然とわかってしまう。だから、英語もそういうやり方をしてきたのではないか。

それともう一つは福澤のいた翻訳方と開成所との関係がどうなっていたのかもよくわからない。福澤のほうから何かわかりますか。

西澤 翻訳方と開成所の関係は、私にとってもこれから調べなければならないテーマですが、小幡がどうして開成所に勤め始めたのかを見ると、英語を学ぶ必要に迫られてか開成所で英学を学びたいという幕臣がものすごく増えて、慶応2年10月には150人を超え、教員が足りなかったという事情があったようです。幕臣の中から何人かを採用しようとなるなかで、小幡も候補にあがり、陪臣であることが問題にはなりますが、学術よろしく「翻訳もの」の力を買われて採用される。そして1年で教授手伝から教授に上がっています。

弟・仁三郎ともう1人、慶應に入学記録が残っている最初の人物の1人、伊予松山藩の小林小太郎も開成所に出仕しています。3人については藩主からのお礼状が残っていて、福澤塾からというよりは各藩の代表として採用されるという立場だったようです。

これは小幡が亡くなった後ですが、開成所で小幡兄弟が教え始めたら、その解説がすごくわかりやすいので、休み時間は小幡兄弟の前にだけ質問する人の列ができたというエピソードが「時事新報」に載っているんです。

大久保 開成所に勤めた慶応2年に、小幡は慶應義塾の塾長となります(1890年の塾長就任とは異なる)。さらに慶應義塾の建学の理念を示した『慶應義塾之記』の起草にも携わったといわれます。この間に福澤の中で小幡の評価が急速に高まっていったということでしょうか。

西澤 当時の塾長は学生の長のような形で今の塾長の役割とは違っています。慶應年間に入塾した学生たちの話だと小幡が入塾の手続きや案内のようなこともしていたようです。ただ、そのような中で、開成所にも行っていたのは不思議です。小林小太郎も小幡兄弟も開成所で教えていて、しかも、福澤は慶應3年になると再度アメリカに行って留守にしている時期もあり、その時期に義塾の中はどうなっていたのでしょうか。

恐らく、福澤は塾に入る前から小幡に対する期待を強く持っていたと思いますし、来てからの小幡は、期待にたがわぬ活躍をしたということかと思います。

大久保 小幡は明治4年に福澤の提言によって中津市学校が設立されると、初代の校長となります。西澤さんのご論文(「小幡篤次郎 その思想と活動 ―交詢社設立までを中心に―」『甲南法学』57号、3.4号、2017年)を見ますと、小幡は訳書科という科もつくったそうですね。中津での活動はどのようなものだったのでしょうか。

西澤 話が少し戻りますが、慶応2年5月に入塾した馬場辰猪によると慶應義塾の教授法は全く不完全なもので、定まった教師がおらず、互いに教え合い、年長から恩恵のように授業を授けられていた。開成所で印刷した30ページぐらいの英語文典を使い、ABCを教えぬまま、まずこの本を教えられたと言います。発音はいつも間違っていたのだけれど、当時は正しい発音を知っている者は誰もいなかったそうです。

小幡が考えていたのは語学として英語を学ぶというよりも、英語を通じて、それまで紹介されていない新しい学問、新しい知をどうやって皆で受容していくのかということだったのだと思います。中津市学校をつくった時も、いきなり難しい洋書に取り組むのは、ある程度、儒学の素養がある人でないと難しい。新しく学校をつくって様々な人に教えるとなると、訳書科をつくり、語学を学ばなくても内容がわかる翻訳本で学ぶことが必要だと考えたのでしょう。訳書科というのは翻訳された本で学ぶという意味になります。

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