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【三人閑談】
小幡篤次郎を読む

2022/09/06

見えてこなかった存在

大久保 このように小幡は福澤の活動に不可欠な存在だったわけですが、それではなぜ、これまで小幡の著作集は編纂されなかったのでしょうか。

西澤 馬場辰猪や鎌田栄吉は全集が出ていますし、同郷の中上川彦次郎にしても、磯村豊太郎や和田豊治にしても皆、立派な伝記があり、あるいは伝記をつくるために集めた伝記資料集も出ていますが、今まで小幡にはそれもなかったのです。

大久保 同時代の人々は、福澤の後ろには小幡がいて、小幡の後ろには福澤がいるという関係をよく知っていました。不思議なのは、それにもかかわらず、『福翁自伝』の中では、小幡の存在があまり明瞭ではないことです。

川﨑 『福翁自伝』は単純な自伝ではなく、あの時代に福澤が何を言いたかったということが中心になるので、政治との関係とか、そういうものが中心になってくるわけです。

小幡そのものは絶えず一緒にいたような人で自分の右腕だから、特にそこで名前を挙げて論ずるというまでもないというか。福澤の発言なのか、小幡の発言なのか、2人一緒のようなことがあるわけですよね。

福澤にしてみれば小幡の論と自分の論は一つであり、自分で語ってしまえば終わるということだから、小幡は自分の中にいるもので、分けて考えるような人物ではないということでしょうか。一体化してしまっている感じがどうしてもぬぐえない。

『自伝』はとにかく自己主張だと私は思っているので、それゆえ、そこには小幡を逆に出さないという感じなのだろうなと感じます。

大久保 小幡は「福澤の右腕」とよく言われるわけですが、今回、著作集を出す一つの意図として、「単なる右腕だけの存在として考えていいのか」という問いかけもありますね。

川﨑 問題の一つは『学問のすゝめ』の初編は小幡・福澤共著だということ。それは中津市学校として、中津に向けて出すには、福澤より小幡のほうが中津では顔が利くからと言われています。ただ、私にはそれだけではないように思われます。共著の意味をもう少し重要視したいと思っています。

「天は人の上に人を造らず」という有名な出だしの言葉を選んできたのは福澤なのか、小幡なのか。もしかしたら小幡が選んできたのを福澤流の文章にしたのかもしれない。これは私のまったくの妄想に過ぎませんが。

次に『文明論之概略』の中にある内地雑居批判論は、まず西周と津田真道が内地旅行推進論を『明六雑誌』に載せる。それに対して、福澤が「西先生ノ説ヲ駁ス」という形で『明六雑誌』と『民間雑誌』に外国人の来日を許すべからざるの論と内地旅行の駁議を書く。その後、小幡が「内地旅行ノ駁議」を続けて書いていく。そして福澤は自分の論文ではなく、小幡の書いたものを『文明論之概略』の中に取り入れ、小幡から教えてもらったという言い方をするわけです。

福澤の文体と小幡の文体は全く違うわけです。福澤の文体は今でも素直に読める。しかし、小幡は難しい言葉だらけで、今は使わない漢字がいっぱい出てくるし、漢和辞典にもない組み合わせの造語が頻出する。

丸山眞男さんの『「文明論之概略」を読む』では、福澤が書いたものを小幡が引用していると言うけど、小幡の文体と福澤の文体は違うわけだから、あの文章は小幡のものだろうと思うのです。骨子としては同じで、ただ、小幡のほうが非常に具体的で、福澤はやはり文明論という観点で論じられていると思われます。私のイメージでは、福澤は、彼の思想的な背景から言って内地雑居に反対していないと思います。しかし、あの時期には西らに対し反論しないわけにはいかない。

当時の議論は、自由民権期の演説会だと、特に政談演説会は自分の考えとは別に、論者に対し反対意見を無理やりでもつくって議論を成り立たせていくことがあります。内地雑居については、小幡が明確に問題点を挙げている。その現状は認めなければならないのに、それについて西先生は何も言っていないので困る、というのが福澤の議論の吹っ掛け方だろうと私は読んでいます。

福澤・小幡の共同作業

川﨑 それから、ウェーランドというと福澤だけれど、ウェーランドの原書を買ってきたのは小幡です。英語の書物については小幡の着眼点は非常に優れていた。それで、小幡が「これ、面白いよ」と福澤に渡したのを福澤が読んでいくというような関係ができていたのではないか。だから、両者は相互関係にあった。

話が少し飛びますが、後に「時事新報」が発刊されると、「不偏不党」をモットーにします。しかし、あれは単に政府に対する隠れみのであり、全て、福澤と小幡が立案して読んでやるのだと明言している。全て福澤と小幡が「検閲」しているわけです。福澤の党派性の表れる言論機関と私は位置付けています。

つまり、「時事新報」に掲載されたものは福澤・小幡の考えで、その議論の中から一つの方向へ導いてい くスタイルを取っていた。これは『学問のすゝめ』以来、一貫して小幡と福澤が共同してやってきたことではないか。だから、福澤の陰で小幡が支えたのでもなく、言ってみれば二人の共同作業ということが前提にあるのではないか。

『西洋事情』以降ずっと福澤が絶えず出してくる問題を、しっかりと原典から、根拠を示しながら伝えていこうとしたのが小幡だったのではないか。だから、合体して一つの作品をつくり上げた関係と言えるのではないでしょうか。

大久保 つまり、一つの工房のような形でつくり上げているイメージでしょうか。これまでは福澤諭吉という光があまりにも強すぎ、小幡はその右腕という位置付けでしかなかった。しかし、実際には互いに切磋琢磨し、福澤自身も小幡から多分に影響を受けていたのかもしれません。

『文明論之概略』でも、福澤は緒言の中で小幡について、「就中(なかんずく)、小幡篤次郎君へは特にその閲見を煩わして正刪(せいさん)を乞い、頗る理論の品価を増たるもの多し」と記しています。

トクヴィルの翻訳をめぐって

大久保 小幡の著作活動の注目すべき点はジョン・スチュアート・ミルとトクヴィルという、福澤が文明論や地方分権をめぐる政治論を展開する上で、非常に重要な思想的源泉となる著作の翻訳を行っていることです。

『上木自由之論(じょうぼくじゆうのろん)』は、フランスの思想家トクヴィルが著した『アメリカのデモクラシー』の中の出版の自由に関する議論を、小幡が明治6年に英訳版から重訳した翻訳書です。トクヴィル受容の点でも、また出版自由を論じた点でも、非常に早い時期に公刊された貴重な作品です。

小幡はその後、明治9(1876)年になると同じくトクヴィル著『アメリカのデモクラシー』の英訳版から、「義気」(public spirit)や、「政権」(government) と「治権」(administration)の区分ならびに集権と分権について論じた箇所などを訳出し、『家庭叢談』誌上に発表しています。これらの翻訳は、同じ頃に執筆された福澤の『分権論』(明治10年)の中で紹介されており、福澤は小幡によるこれらの翻訳から影響を受けていたと推測されます。

よく知られるように福澤の『分権論』は、不平士族の反乱が問題化する同時代の政治状況について正面から論じた作品です。そのなかで福澤は、小幡によるトクヴィルの翻訳を引用しながら、人々が「政権」ではなく、それとは「源を異」にする「治権」、すなわち「公共の事」に与る「地方分権」を確立し、「自治の精神」に根差した「愛国心」を養うことの重要性を唱えています。

私はこの間、大学院の演習を通じて、トクヴィル著『アメリカのデモクラシー』の英語版と小幡の訳文を比較しながら検討していますが、いろいろ面白いことがわかってきます。

まず、小幡の訳は時折難しい言葉が使われていますが、全体としてとても読みやすく、翻訳として完成度が高いと言えます。儒学の深い素養の影響もあり、訳文は簡潔でありながら、本質を突いた訳文であるという印象を受けます。

さらに英文と比較すると、小幡の翻訳意図が浮かび上がってきているように思える箇所にいくつも出会います。

ささやかですがその一例として、「仏人トクヴィル氏の著書「デモクレーセ イヌ アメリカ」中より合衆邦人の義気を論する一篇を訳す」では、愛国心を自然的なものと合理的(rational)な性格を持つものとに区分するトクヴィルの議論が翻訳されています。特に後者の合理的な愛国心は、福澤の『分権論』の中で、「道理」に適う「推考の愛国心」として紹介されます。

ここでトクヴィルは、loyalty を、前者の自然的な愛着に基づく、一種の宗教とも言える愛国心の一形態として説明しています。興味深いのは、小幡がこのloyalty に「尊王」という訳語をあてていることです。それにより読者は、小幡の訳文を通じて、「尊王」思想のような愛国心は自然的な愛着による一時的なものであり、これからの世の中はそれとは異なる、政治や行政への参加に基づく合理的な愛国心が求められている、と理解するのです。ここからは、小幡にとって翻訳は単に学問的な営みであるだけでなく、実は一つの政治的行為でもあったことがうかがえます。

ちなみに、福澤の『分権論』と対比すると、実は福澤が小幡の訳文に、断りなく加筆している箇所があることもわかります。

福澤は『分権論』の序文で、「この書一篇は、我社友、随時会席の茶話を記したるもの」と述べています。小幡や福澤は、「会席」を通じて、自らの学問的成果を披露しつつ、現今の政治について語り合ったのでしょう。学問と政治との間を往還しながら討論を繰り返す、当時の慶應義塾の姿が目に浮かぶようです。

こうして彼らはトクヴィルなど西洋の思想家の著作に触れ、そこから知的触発を得て、眼前に広がる明治日本の政治課題に取り組んだのです。

川﨑 明治8年に讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条例が出る。その時にまともにその批判をしているのは「郵便報知」だけで、小幡の署名で、明らかに讒謗律に対する批判として記事が出されます。ほとんど注目されていませんが、これも小幡の功績です。

ただ、明治6年段階だとあまりそういう出版の問題は、直接は出てきていなかったのではないか。その中で出版の自由の問題を出していく。しかもまだ自由民権運動以前ですから、自由の問題を考えるものとしても非常に早いものです。

きっとトクヴィルを読んで感激したのだろうし、福澤はそのときどう思ったのか分かりませんが、共に「郵便報知」を支援し、書き手でもあったわけです。結局、小幡は出版の自由を強調することの意味を他の誰よりも意識していたのではないか。その結果、福澤がいろいろな著作を出していく中で、福澤を守っていくことになったのではないか。

だから、文明の先達者というと福澤のイメージがありますが、そういう基本的なことのリーダーシップを取った人物だと私は小幡を評価したいと思います。

トクヴィルは自由民権運動が起こってから騒がれるわけだけど、その時よりも『上木自由之論』のほうがインパクトはあったわけで、津田の『泰西国法論』とミルの『自由論』が植木枝盛などに影響を与えて自由民権運動に行く。その思想的根拠を与えたものの一つが『上木自由之論』であったと見ているんです。

大久保 ご指摘の通りだと思います。

出版の自由を取り締まっていくと専制に至るという、政治哲学的にも重要なトクヴィルの議論が、この時期に翻訳にされたことは、明治思想史上においてもきわめて大きな意義があります。

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