【三人閑談】
包む、日本の伝統文化
2022/07/25
贈り物に込められた型の文化
山口 たしかに、外国の方は包装を破いて開けることが多いように思います。包みは単なる保護の役割にすぎず、相手に届きさえすれば後は用済みという意識が窺われます。
僕らはむしろ外側を大切に考える文化でしょう。中身も大事ですが、包みや結びは身体を使った所作も含めて外側に心を込めている。それによって目に見えないものを付与している気がします。
こもの どうすれば相手の方が喜んでくれるのか、まず相手の好みの色や包み方から考えますものね。それが包むことによる付加価値なんです。海外の方が包装を破くのは、「何をいただいたのかしら、早く見たいわ」という感情を表現しているように思えます。
佐賀 日本人は「何か包んで差し上げなさい」と言います。そういう場合、「何を」ではなく「包むこと」自体を問題にしていますよね。
山口 一見軽薄に聞こえるようで、じつは外側こそ心だという矛盾した論理が働いているようです。
佐賀 でも、なぜそんな感性が培われたのか不思議ですね。汎神論的というか……。世界には心というものが偏在していて、オブジェクトとは心を伝えるものだというような、何かしらの宗教観につながっているのでしょうか。
こもの りんご1つでも、お隣におすそ分けしようという時に、このまま持って行くのではちょっと……と思いますよね。やっぱり、どうやって包もうかと考えます。
佐賀 日本人の感性として、りんごをもらったら「もらった」事実のほうが大事で、その延長線上に包む行為があるのかもしれませんね。
こもの いただきものがあった時、お返しの仕方も考えませんか? 器に入れていただいたら、その器に別の何かを入れてお返しすることを「お移り」と呼びますが、差し上げる時にも相手が気を遣わないように配慮する慣習があります。
山口 相手の負担にならないように、という気配りをしますよね。
佐賀 その配慮が所作やマナーにまで及ぶというか、茶道や華道はどういうものを仕立てるかということよりも、そこに至るプロセスがむしろ主眼になります。そういう型の文化みたいなものも日本を特徴付けるものの1つでしょう。
山口 型が伝承されるためには、自分の身体をそこに投げ込むことが求められると思うんです。その反面、型どおりにやればよしとしてしまう危険性もある。
折形は「型」ではなく「形」ですが、吉の形もあれば、凶の形もあります。さらには「格」もあり、形が格付けに依っている。その背後にはやはり心の問題があるんです。心がないとつい「これが正しい、あれが正しくない」という議論に陥ったり、「ほかの先生はそんなこと言っていない」と言ったりします。どういう思いや心が入っているかという肝心な部分が見落とされてしまいます。
「包む」を追体験する
山口 折形は贈答品を包む礼法なので、本来結びを解いて包みを開かなくてはならないのですが、今出版されている入門書を見ても、そういうことは書かれていません。伊勢貞丈の時代は、所作として誰もが知っていることだったと思います。
こもの 私が以前監修を務めた『包みかた、結びかた便利帳』(PHP研究所)では、解き方も解説しました。おっしゃるとおり、結ぶことは解くことでもありますね。
山口 折形は包んだものを解いたり開いたりすることで流れをリバースするところがあります。解きながら包んだ相手の身体性を追体験するというか。
佐賀 なるほど。逆再生する……。
山口 まず包んで結ぶという贈る側の所作があり、それを受け手が解いて開く。まさに逆再生ですね。折形にはそういうコミュニケーションの側面もあります。
佐賀 そこに現代的なデザインの余地も残されているということですか。
山口 そうですね。一方で、折形には封を他人に開けられないようにする「結び切り」という技法もあるんです。
こもの 水引は解けない結びとして最も知られているものですね。何度でも結び直せる結びと、一回限りの結びがある。
山口 そう。一回きりにするために結び切りにする。そういうこともきちんと伝承されているのですが、あまり知られていないのは残念です。
こもの 水引は大抵、封筒をスライドさせて抜いてしまいますよね。裏面の重ねが違うのは意味があるのですが、わからないから、水引が崩れないようにそっと抜いて、お金を入れて戻す方が多いような気がします。私もマナーを勉強するまではそうしていました(笑)。
山口 伊勢貞丈は江戸中期の人なのですが、彼が著した『包之記』や『結之記』を読むとすごく論理的な思考の持ち主だったことがわかります。きちんと根拠にもとづいて折形を説明しています。例えば、これは室町時代の陰陽五行説に則った形だとか、この形は受け取った人の手が空いているから、両手で引き解けるようになっているといった具合です。あの時代にあって、近代的な思考を持った人なのだと思いました。
一方、自らの家柄の正統性を主張するところがあります。その点は、相対化して彼を見据えるように注意しています。
こもの 一度理由を知ると忘れませんよね。
山口 僕も折形の教室を受け持っていますが、貞丈の話をしながら論理的に説明すると、みんな納得するんです。
こもの 折形には"見せるラッピング"もありますね。全体を覆うのではなく、中身の一部を包む形です。例えば、矢を包む時、篦(の)の部分を包み、矢羽根と矢尻は見えていてもいいという考え方があります。
私もラッピングでは"見せるラッピング"が大好きでぬいぐるみなどは顔を見せて包んだりしますが、折形を勉強した時にすでにあるのを知って新鮮でした。全体を包み込んでしまうのがラッピングだと思っている方も多いのではないでしょうか。風呂敷では全体を包むことが多いですが。
山口 パッケージは保護したり、装飾したりといった意味合いが強いですが、おっしゃるとおり、そうではないものもあります。伊勢貞丈はそれを「見ゆるように包む」と書いています。中身が見えていれば、上書きする必要がない。わざわざ中身が見えるように包むのはとても不思議なことなのですが。
伝統の価値を守るとは?
佐賀 僕は慶應を出た後、美大に入り直して、今は美大でタイポグラフィの理論や実技を教えています。美大の受験では、いまでもデッサンや色彩構成をやっています。これは19世紀のやり方ですが、最近、それが今も続いていることの意味を考えていました。
絵を描く行為には、それによって単純に何かを描き出す能力や、そのための技術の修練だけではなく、何かを感じ取る力も求められます。美大という場所はつくり上げる能力と、感じ取る能力を身体性を通して磨き、また学問的に追究する場ではないかと思います。
僕たちは行動と結果を切り離して考えがちですが、例えば、包まれたモノというのは包む行為と切り離せません。包む行為を通して、包む心が感じとれるようになりますし、包まれたものを受け取った時に、僕たちも自分の身体を使って、何かを理解すると思うのです。
岡さんが抗った近代的な包装デザインには、おそらくそういう身体性が介在する余地がほとんどなかったのではないかと思います。では、そういう文化が支配的になった時にどうして着物はなくならなかったのか。着物のマーケットシェアは明治期以降、下がり続ける一方で、文化的価値は上がっています。
経済的な物差しで測れば、着物には大きな価値はありません。でも文化的な価値は相反して上がったわけです。こものさんや山口さんの活動は、そういう価値を守るガーディアンとしての役割を果たしているのだろうなと思いました。
こもの 私がラッピングを始めたころ、百貨店などではそのサービスでお金をとることはなかったのです。そのうち、ラッピングサービスのカウンターができましたが、最初はそれに対価を支払うことに抵抗を感じるお客様もいました。
ですが、そういう声も次第に減り、私も百貨店で自分がデザインした風呂敷で包むといった催事をやらせていただき、とても盛況でした。
箱代やリボン代もかかるわけですが、最近は包むことの価値に共感する層も生まれていて時代の移り変わりを感じます。
佐賀 成熟し、固着したものというよりも、むしろ時代を超えて再定義されていくものが伝統文化なのかもしれません。
今、包むことの価値を考えるには、僕たちが置かれている現在から捉え直す視点が必要です。ある意味で時代の変わり目なのでしょうね。
山口 岡さんが収集した伝統パッケージのコレクションは、あの時代だから収集できたと言えるでしょうね。ある意味、ギリギリの時期だったと言えるかもしれません。
岡さんのコレクションには竹の皮を使ったものなど、天然素材が多く見られます。天然素材とは土に返るものです。そういうものが、時代が変わるにつれてビニール製のフェイクの竹になり、工業製品へと置き代わっていきましたが、岡さんはその境目の時代にご自身のアンテナでそれをキャッチしていた気がします。
柳宗悦ら民藝の人々はああいうものを民藝と呼ばないような気がしますが、僕は地場の人たちが身近にあるものを工夫してつくったパッケージも、広い意味で民藝と言えるように思います。
佐賀 民藝はもともとイギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動があり、それに重ね合わせるように日本の伝統文化を再定義しようとした運動ですよね。
柳宗悦らにとっては、収集した品々を作家性とつなげることがもう一つの主題でした。岡さんが収集したパッケージは、いわば"詠み人知らずのデザイン"です。でも、山口さんが言うように、本質的には1つのものとして括られるべきだと思います。
山口 そうですね。
佐賀 お弁当の仕切りに使われる、笹を模したプラスチック製の「ばらん」なんて型の極致みたいなものですね。
山口 もともとは殺菌作用があるという理由で薬効のある葉っぱが使われていたのですよね。
こもの 笹団子は今も本物の笹で包まれています。
山口 心ある老舗は、その点をちゃんと使いながら伝承していこうとしていますね。
カテゴリ | |
---|---|
三田評論のコーナー |