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【三人閑談】
包む、日本の伝統文化

2022/07/25

  • 山口 信博(やまぐち のぶひろ)

    グラフィックデザイナー、折形デザイン研究所主宰。1948年生まれ。桑沢デザイン研究所中退後、山口デザイン事務所設立。日本の伝統的な礼法である「折形」の研究、指導を行う。著書に『新・包結図説』など。

  • こもの ちほ

    Salon de COMONO主宰。慶應義塾大学工学部卒業後、放送局ディレクター等を経て、ライフスタイルデザイナーに。スクールや出版を通じ、日本の伝統文化を幅広く伝える。著書に『包み方、結び方便利帳』など。

  • 佐賀 一郎(さが いちろう)

    多摩美術大学美術学部グラフィックデザイン学科准教授。1976年生まれ。2000年慶應義塾大学総合政策学部卒業。専門はデザイン史。著書に『包:日本の伝統パッケージ、その原点とデザイン』(共著)など。

「包む」との出会い

こもの 私は普段マナーの講師をしています。ビジネスや冠婚葬祭から食事のマナーまでさまざまですが、贈答のマナーも教えており、私自身もラッピングの勉強をしました。

包装紙で包み、リボンで飾るのが洋のラッピングなら、和のラッピングもあるはずと考えた時に、それは風呂敷だろうと思い当たりました。勉強を始めたころは風呂敷が少し廃れかけていた時期でしたが、京都で昔の風呂敷包みの発掘や新しい包み方の探求に取り組んでいる方に習い、それ以来、風呂敷の魅力に取りつかれています。

佐賀 その成果を生徒さんにも伝えていらっしゃるのですね。こものさんはどのくらいの期間、風呂敷を探求しているのですか。

こもの 数十年ですね(笑)。風呂敷に興味を持ってくれる生徒さんもたくさんいます。今でこそ風呂敷は専門店以外の場所でも手に入りますが、私が始めた時はお店も本当に限られていました。生徒さんにも「どこで買えるんですか?」と訊かれるほどでした。

当時は呉服屋さんに置いてあるのがせいぜいで、そういう風呂敷は正絹で作られていて非常に高価。それでも京都の繊維問屋からお安く取り寄せたものを教材として配ったりしていました。

転機になったのは、小池百合子現東京都知事が環境大臣に就任した時です。環境配慮の観点から風呂敷に着目され、それをきっかけに一般層へと広がっていきました。

山口 僕の本業はグラフィックデザイナーですが、そのかたわら、日本の伝統的な礼法とされる折形(おりがた)の研究を続けています。折形とは熨斗(のし)や水引をはじめ、贈答品を包む型として現代に伝わる日本古来の伝統的な技法や文化です。

僕がその世界を知ったのは、俳句雑誌のデザインのために、日本的な図版が載っている本を神保町へ探しに行った時のことでした。ある店で棚を眺めていると伊勢貞丈(1717-84)の『包之記(つつみのき)』という本を見つけました。とても古い本でしたが、興味本位で手に取ってみると、見開きで折形の展開図と完成図が対になっていました。ただ、そこに添えられている文字は万葉仮名で、さらに連綿体で書かれていてほとんど読めない。

こもの とても古い本ですよね。その本をお求めになったのですか?

山口 はい。図版がとてもきれいで、ここから理解できることもあるのではと思い、買って調べることにしました。後にそれが「折形」と呼ばれる礼法で、それを研究している山根章弘という方がいらっしゃることもわかりました。

偶然にも山根先生の『日本の折形』という本を持っており、その巻末にあった「山根礼法教室」の電話番号に連絡してみたんです。すると奇跡的に山根先生とつながり、伊勢貞丈のものと思われる本を手に入れたので一度見ていただけませんかとご相談したところ、「明日遊びに来なさい」と言っていただきました。翌日、出かけて行き、その日のうちに入門することになりました。

古書店で『包之記』を手に取らなければ、折形に興味を持つことはなかったのですごい偶然ですが、必然という気がしなくもありません。それ以来、日本の文化や礼法、武家の文化を学び続けてきました。それと同時に、デザイナーとしての視点からも、こんなことができるんじゃないかと、色々と応用の仕方を考え続けています。

佐賀 僕はデザインの歴史を研究しています。日本の伝統パッケージを収集した岡秀行(1905-95)というデザイナーがおり、彼のコレクションが目黒区美術館に寄贈されました。そのコレクション展を2021年に開催する際、僕も企画に関わりました。岡秀行という人物について調べながら、包むということについて色々と考えてきました。

岡さんは戦前からグラフィックデザイナーとして活躍していましたが、1959年ごろから90歳で亡くなる1995年まで、日本の伝統パッケージを収集し続けました。

デザイナーという仕事は基本的にものをつくり、対価を得るという社会的な立場ですが、岡さんは高度経済成長期の中でまるでそれに抗うように、ほとんど値打ちのないような伝統パッケージに夢中になったのです。彼がその向こう側に何を見ていたのか。岡さんについて調べる中で、それぞれの時代の文化や地域の風俗、習慣や産業の中で生きている人たちが、自分の思いを形にする行為として「包む」があるのだと感じ取りました。

消費社会と伝統文化

佐賀 岡さんは小説家を志望していた時期があり、リアリズム小説のようなものも書いています。つまり若い頃から個人と社会を結びつけて捉えていた。そんな彼にとって、デザインという仕事は社会的な行為であり、モノを通じて日本の発展を導く一助となるものと考えていました。デザインとは単純にモノを装うのではなく、社会を変える仕事であるという志があったのです。

岡さんが伝統パッケージの収集を始めた1960年代前後は、多くの人気デザイナーが活躍していました。70年代にスーパーマーケットができ、デザイナーもパッケージデザインを手掛けます。そうした中で、岡さんは自分の仕事が結果として消費者を生んでいることに気付いた。

商業的なパッケージデザインは買い手に選択を迫るものです。岡さんが伝統パッケージの収集に打ち込んだのは、そこに暗い未来しか見出せなくなったからかもしれません。

山口 デザイナーがみんな時流に乗った時代に、岡さんはどこかで抵抗する気持ちがあったのかもしれませんね。僕にもそういう葛藤があります。消費者に欲望を持たせることが本来のデザインなのだろうかと。

佐賀 伝統文化に着目することには、そういう流れと相反する部分があると思います。伝統も文化も、その本質は外観だけにあるわけではないからです。

山口 僕は若い頃、スイスのグラフィックデザインに憧れていて、勤めていたPR会社では何をデザインするのにもそれっぽいものを意識していました。その時、当時の上司だった瀬底恒さんというデザインジャーナリストの女性から「ナショナリティ(国民性)をちゃんと持たないとダメよ」と言われたのです。この言葉は僕の胸に刺さり、自分が日本のことを何も知らないことに気づきました。

ただ、僕が折形にのめり込んだ動機はもっと単純です。『包之記』に興味を持ち、調べてみると知らないことばかりだったからです。

例えば、かつては武家の礼法というものがあり、貞丈の『軍用記』によれば首を落とすにも作法がありました。落とした首をどのように洗い、首を検分するのか。あるいは箱に納めるためにはどうやって包み、検分役に差し出せばよいか、伊勢貞丈はそういうことも図解しています。首をはねるという蛮行を肯定しているわけではありませんが、そこにすら、美しい作法に則って行う行動美学があったのです。こうしたことが折形の世界に惹き込まれるきっかけになりました。

ラッピングに現れるナショナリティ

山口 一方で、その世界をデザイナーの視点で見る自分もいます。折形とデザインはどこかに接点があるかもしれないと。そういう動機から、山根先生が亡くなった後も自分たちで研究を続けるために、折形デザイン研究所を立ち上げました。

佐賀 礼法や所作は動作を伴うものですよね。それは世代を超えて受け継がれた、匿名性をもつものです。こものさんも風呂敷をデザインする中で伝統と向き合っていると思います。現代的な感覚との葛藤があるのではないでしょうか。

こもの それは風呂敷だけでなく、テーブルコーディネートやラッピングにも言えるのですが、じつは私も伝統を追求する中で折形に行きつきました。私が習っていたのは山根章弘先生のご子息の山根一城さんです。ですので、今、山口さんから山根先生のお名前が出たことにとても驚きました。

山口 そうだったのですか⁉

こもの 私は一城先生から折形を教わった上で、風呂敷という文化を広めることをライフワークにしようと決めました。私の場合、風呂敷を使ったライフスタイルを教えており、海外で講演することもあります。

「ナショナリティ」という言葉が出ましたが、日本人はリボンを結んで形を作るといったことがとても上手です。海外の人を一概に不器用とは言えませんが、対照的だなと思ったのは、海外にリボンを注文した時のことでした。

太くてかわいいリボンが届きましたが、素材は硬くて結びにくいポリプロピレンでした。不思議に思いましたが、海外に行ってわかりました。向こうの人たちはリボンを留めるのにホチキスやスプレーのりを使うのです。包装紙も包みながら不要な部分を切っていく。日本人は紙取りから始めますよね。包むもののサイズに合わせてまず包装紙を切ります。さらに折形では左から包むとか、裏返してはいけないといった作法もあります。

山口 外国の人たちは品物を上下左右に回して、自由に包みますよね。

こもの 包装を開く時も外国では大抵破いて開けるのに比べ、日本人はきれいに開封します。こうした考え方をナショナリティと呼ぶかどうかはさておき、文化の違いを感じます。

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