【三人閑談】
アフリカの動物と自然
2022/04/25
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ヒサクニヒコ
漫画家、絵本作家。1966年慶應義塾大学法学部法律学科卒業。アフリカを25回訪れ、野生動物に造詣が深い。著書に『サファリに行こう』等。本誌に「ヒサクニヒコのマンガなんでも劇場」連載中。
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篠田 岬輝(しのだ こうき)
動物写真家。2013年慶應義塾大学法学部法律学科卒業。コンサルティング会社勤務後、17年プロ写真家として独立。アフリカを中心に世界各国で野生動物を撮影。著書に『サバンナに生きる!ライオン家族の物語』。
アフリカに動物を見に行く
ヒサ 私はケニアに25回通っているのですけれど、最初に訪れたのはちょうど40歳の時でした。たまたま知り合いの編集者から「ケニアに行くので、どうですか?」というお誘いがあったんです。
その時、児童文学者だった神戸さんのお父さんから担当者だった別の編集者を通して、息子がアフリカに行ってしまって帰ってこなくて心配でしょうがない。とにかく会って様子を見てきてくれと言われて。
神戸 そうだったの?(笑)
ヒサ 神戸さんとはその時にナイロビでお目にかかったのが初めてですよね。私はそれ以来ケニアにハマってしまって、アフリカの360度の地平線の中に入った感動が忘れられなくなりました。
あの頃はナイロビのナショナルパークも結構ワイルドで、飛行機が着陸するそばを普通にキリンが歩いているような時代でしたが、今はだいぶ近代化されました。
それからもう35年ほど経つんですが、篠田さんが初めてアフリカに行かれた時はおいくつでしたか。
篠田 2013年、23の時です。
ヒサ 若い。いいな、若い時に行きたかった。
篠田 初めて行った国は南アフリカでした。クルーガーナショナルパークに行ってサファリをしたのですが、乗り合いのバンで遠くからしか動物を見られなかったんです。
ヒサ いわゆる観光のサファリですよね。
篠田 そうですね。ケニアのほうが動物を近くで見られるという話を聞いて、翌年に行きました。
ヒサ きっかけは動物が好きだったからですか?
篠田 小さな頃から岩合光昭さんの写真や『ナショナルジオグラフィック』を見ていて、アフリカの動物がすごく好きでした。動物園でずっと見ていて、野生の動物を見に、いつか行きたいと思っていました。
行ったらハマってしまって、2、3週間の休みが取りやすい会社だったので、アフリカに通うようになり、写真を撮り始めたんですね。
ヒサ 写真はもともと好きだったんですか?
篠田 趣味でやってはいたのですが、アフリカで本格的に動物を撮り始めてから、機材もきちんとしたものを買うようになりました。仕事をしながらお金を貯め、機材とアフリカに全額つぎ込むという生活を3年半やって会社を辞め、カメラマンとしてやっていくことにしたんです。
ヒサ カメラマンの道に進みたいと思ったきっかけになった写真はあるのですか。
篠田 「これは撮れたな」と初めて思ったのは、ケニアのマサイマラ(特別保護区)のブラックロックというライオンの群れの雄ライオンが、1頭だけ朝焼けの中で岩の上に立っているのを夢中で撮った時です。
ヒサ かっこいいよね。
篠田 その写真が運よく海外の賞で入選しまして。
ヒサ あそこは雄の片目のライオンがいたよね。
神戸 まだ生きているのですかね。
篠田 ベナというそのライオンは去年死んでしまいました。スカーフェスというマーシュのほうにいたのも去年死んでしまって。
神戸 マーシュはヨタヨタになって死んでしまったよね。
篠田 はい。もう13、4歳でした。
ライオンに注射をしたい
ヒサ 結構な年だよね。動物たちは皆、あの大自然の中で自給自足で生きているわけです。サファリにハマってから、周りの人を誘って行くと、「誰が餌をあげているのですか」と言う人がいる(笑)。サファリパークの大きいものだと思っている。
神戸さんもやはり20代でケニアに行ったのでしょう。
神戸 はい。24の時ですね。
ヒサ その時はもう日本で獣医になっていたのですよね。
神戸 そうです。でも、行ったらアフリカで獣医をやりたい、ここでライオンに注射したいなと思って。
篠田 すごい(笑)。
ヒサ それで帰るのをやめて、そのままアフリカに居ついてしまったのですよね。
神戸 そうです。最初の5年ほどはアフリカをサファリしていました。いかりや長介さんのテレビ番組のコーディネートをさせてもらったり。1回お世話すると、1年分の食費に当たるギャラが出る。
ヒッチハイクでアフリカ中をめぐってナイル川やコンゴ川を下ったりもしました。
ヒサ その頃ですか? チンパンジーのキキと一緒に暮らしていたというのは。
神戸 コンゴのジャングルに行った時に、チンパンジーをもらったのです。それ以来一緒に住んでいました。
それを連れてナイロビまで来て、Animal Orphanage という野生動物の治療や世話をするところに預けたんです。密猟者に親をやられたウロウロしている赤ん坊の動物を引き取る動物の孤児院です。そこで動物の獣医のような仕事をさせてもらい、ここで獣医をしたいなと思ったのです。でも、日本の獣医師の資格は通用しない。それで大学に行きました。
ヒサ どうやって大学に入ったのですか。
神戸 ナイロビ大学に入るのは大変で、当時、ナイロビの市長をしていた大統領の娘さんが学長に電話をしてくれたのです。小倉寛太郎さんのツテで市長と知り合いになれたのです。
ヒサ 小倉さんというのは、当時のJALのナイロビ支店長で、山崎豊子さんが『沈まぬ太陽』の主人公として書いた人ですね。ハンターだったんですよね。
神戸 そうです。ゾウを何頭殺したのか聞きましたが、絶対に教えてくれなくて。
ヒサ でも、途中から動物カメラマンに変身したんですね。
神戸 そう。白黒コロブスモンキーが枝伝いに空中を飛んでいる写真を見せてくれました。
それで、大統領の娘さんに話をしてくれて、その人がナイロビ大学の学長に話してくれたんです。すると、学長は跳び上がってしまって、直立不動で「今から教授会を開くから」と(笑)。
ヒサ それで、獣医さんになれたわけですね。
神戸 でも、大学の卒業に5年かかりましたよ、英語がわからなくて頭の毛が抜けましたよ(笑)。
50年の変化
ヒサ 獣医になってからはいかがでしたか。
神戸 そのころケニアには約1500人の邦人が駐在され、治安のために番犬を飼っていました。ナイロビで開業したら、ほとんど邦人宅の番犬を診るだけになってしまい、野生の動物を診たいと思っていたのに空しくて。
何か役に立つことをやりたいと思っていたら、マサイマラの近所のマジモト村というところの診療所が1軒空いているから、おまえやれと言われ、それ以来今日まで、そこで牛やヤギの治療をしています。
ヒサ ライオンに注射はできましたか?
神戸 できました。どこに注射するかというと尻尾なのです。ライオンの尻尾はペットボトルくらい太くて、両側に静脈が走っていて、そこに19ゲージの太めの針を入れて採血をするんです。筋肉注射の場合は後ろ脚の大腰筋にスッと刺せばいい。
ヒサ ケニアにいらした50年間でいろいろ環境が変わりましたよね。ワシントン条約が厳しくなったり。
神戸 野生動物がだんだん減ってきました。特に象牙とか犀角のため密猟が多くて。縞目のきれいなグレービーゼブラも今では希少種になってしまいました。
ヒサ 昔はシマウマなんて、どこにでもいましたよね。
神戸 そうですね。インド人の土産物屋にはシマウマの剥製が山積みになっていた。
大統領が1977年にケニア国内ですべての動物の狩猟を禁止したのです。そして、象牙の国際商取引が禁止されたのは1989年です。それまでは象牙がガンガン売られて、特に日本が密輸先でした。
ワシントン条約を各国が批准した後も密猟が増えて、アフリカ中のゾウが10分の1ぐらいまで減ってしまった。それで、今はケニアでも日本でも絶滅の危機に瀕する動物に対して危機感を持っています。
ヒサ 今は中国が象牙を大量に買っていると問題になっていますね。
神戸 そうですね。また、畑や町が増えれば増えるほど野生動物の生息地域が減って、肉食獣も草食獣も減っています。人が増えた分だけ野生動物が減っている。
ヒサ 1つだけの種が突出して増えるということもありますね。
神戸 シマウマが増えるとガゼルが減ったりしますね。周りが全部囲われているナクル湖ナショナルパークでは、最初はウォーターバックというカモシカみたいなレイヨウ類が増えて、それがもっと小さなカモシカ類になり、それが減ると、今は大きなバッファローが増えている。
囲いの中の生態系がどう変化しているのかわかりませんが、例えば寄生虫が増えたとか、ウイルスによる感染症が増えたとかで野生の状況は変化していく。
ヒサ フラミンゴも減ったと言われますけど、あれは移動したのですか。
神戸 100万羽いたフラミンゴは今、2、3千羽しかいないでしょう。あれは増えた湖水が酸性化し、餌だった藻が減って、住めなくなったと僕は思っています。
ヒサ 周りのアカシアの森がみんな真っ黒な枯れ木になってしまって。
神戸 骸骨みたいになって、フラミンゴが食べるアルゲという藻がなくなってしまったので、どこかに飛んでいってしまったんだと思います。
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神戸 俊平(かんべ しゅんぺい)
獣医師。1968年日本大学農獣医学部卒業。71年ケニアを訪れ、そのまま現地で獣医師資格(日本人第1号)を取り定住、ナイロビ市内で動物病院を開業。2021年に在住50年を迎えた。1997年毎日新聞社国際交流賞受賞。