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早川浩:アジア初、ロンドン・ブックフェア「国際生涯功労賞」を受賞

2022/07/15

  • 早川 浩(はやかわ ひろし)

    株式会社早川書房代表取締役社長
    塾員(1965 商)。大学卒業後早川書房に入社。副社長を経て1989 年社長就任。慶應義塾理事・評議員。一般財団法人交詢社文化委員長。

  • インタビュアー駒村 圭吾(こまむら けいご)

    慶應義塾大学法学部教授

早川書房の草創期

──本年4月に、世界最大の書籍の見本市であるロンドン・ブックフェア主催の「国際生涯功労賞」を受賞されたこと、誠におめでとうございます。お互い神田っ子ですので、木遣りでお祝いしたいところです(笑)。それはさておき、これはどのような賞なのでしょうか。

早川 そのロンドン・ブックフェアの審査員24人が毎年、長きにわたって出版を中心とした文化に貢献した個人に贈る賞で、出版人、著作権エージェント、編集者、スカウトなどが対象だそうです。2月25日にロンドンから知らせが届き、私もびっくりしました。まさに青天の霹靂でした。歴代の受賞者を見るとフランスのガリマール社の社長、アメリカのアルフレッド・クノップフの社長など錚々たる出版人が名を連ねています。

父・早川清が1945年に創業した早川書房は、英米を中心に、フランス、ドイツ、イタリアなど海外の本を日本に紹介してきました。今年の8月で創業77年になります。そうした活動が認められたのだと思います。

──世界の名だたる出版社のトップが受賞されています。アジアでは初めてのことだそうですね。

早川 そのようですね。私は、父が始めた仕事を受け継いでいるので、私だけではなく、早川書房の書籍文化が評価されたのだと解釈しています。

父方の祖父が京橋生まれで、軍需協力工場を経営していました。父は一人っ子で、根っからの本好き。物心つく前から祖父母に連れられ歌舞伎や映画館、寄席に行くうちに文化、芸術に馴染んでいた。その上、祖父の工場が戦争で壊滅したので、これから自分が常日頃やりたいと考えていた出版をやろうと思ったのですね。30歳の時でした。父は演劇が好きで、アーサー・ミラーやエドワード・オールビーなどの戯曲や演劇書を出したいがために早川書房を興したと、聞いています。

小学校2年生か3年生の頃、父に手を引かれて6代目(尾上)菊五郎の「鏡獅子」を見に歌舞伎座に連れて行かれたのです。この名役者と踊りは瞼に焼き付けておくように、と言われましたが、見た後、怖くて、怖くて。それから三日三晩寝られませんでした。

──その系譜は今も続いている演劇雑誌「悲劇喜劇」に受け継がれているのですね。

早川 その通りです。私が慶應の学生当時、父の念願で出版した「悲劇喜劇」の監修者でいらした慶應の大先輩、岩田豊雄(獅子文六)先生を編集会議のために赤坂のご自宅によくお迎えに上がりました。他に演劇評論家の尾﨑宏次さん、慶應の大先輩の戸板康二さんの送り迎えもしました。

三島由紀夫先生を「悲劇喜劇」の鼎談会にお連れするため、運転手をやりました。車中での話がとても印象に残っています。三島先生がコロンビア大学の名誉博士号を受けられた時のこと、久し振りのニューヨークだったので、タイムズスクエアの書店に行くと、「Japanese pornography Just Arrived.」と書いてある。日本のポルノとは何だろうと思ったら、それが谷崎(潤一郎)さんの『鍵』(The Key)。「谷崎さん、生きておられたらどんな顔をしただろう」とおっしゃっていました。

アメリカへの憧れ

──英語やアメリカ文化との出会いはどのようなものでしたか。

早川 大学時代は英米の文化、芸術、スポーツ全般にはとても関心がありました。アメリカのポピュラーソング、例えばフランク・シナトラ、ディーン・マーティン、ペリー・コモ、それからエルヴィス・プレスリー、パット・ブーンのEP盤のレコードを、朝から晩まで聞いていました。これらの歌手の英語はとてもわかりやすくて、格好いいな、洒落た言い廻しだな、こういう英語が喋れるといいな、と憧れました。少しでも真似られたら、多少女性にももてるのではないかと(笑)。

大学4年の時、ちょうど第18回東京オリンピックが来ることになり、何とかしてオリンピックに関わることができないかと思いました。それで英語の公式通訳の試験を受けたら、首尾よくジャマイカの団長付通訳になることができました。ジャマイカの選手たちはとても気位が高く優秀でした。ほとんどがアメリカの大学に通っていたり、卒業したりで、その上、元イギリスの統治国家でしたからクイーンズイングリッシュを話す。文武両道を地で行くアスリート集団でした。

後年コロンビア大学のキャンパスで、「世界は狭い!」と言って私に抱きついてきたのがいる。暴漢かと身構えたら、3年前、オリンピックの時に通訳をしたジャマイカの選手でした。彼はコロンビア大学の博士課程にいたのです。

ニューヨークで出版修業

──慶應卒業後にコロンビア大学に行かれたわけですね。その時はもう早川書房の社員だったのですか。

早川 はい、そうです。父に相談したら1年外国へ行かせてやると言われたので、1966年の夏にコロンビア大学のイングリッシュ・インテンシブコースに入りました。ただ、英語だけやるのでは、父としても社員の手前、体面上困る。行くのだったら、世界の出版の中心地ニューヨークに行って同時に映画、演劇、経済を目の当たりにして欲しい、と。

その前年の1965年に卒業してから1年間、会社で経理をやりました。ニューヨークで作家に会ったり、出版社やエージェントを訪ねても、早川書房でどんな本が売れるのかがわからなくては仕方ない。会社全体を知るには経理で仕事をするのが一番ということで。私は経理が苦手なものですからずいぶん苦労しました。

ニューヨークに行ったら、東京の社員たちから「この出版社に行ってくれ。あの本が売れているのでよく調べて知らせて欲しい。こんな新人作家が現れたので作品を読んで感想を」と三日に一度電報が来るのです。ですから学校どころではない(笑)。そうやって出版社やエージェントに出入りしていると、編集者、版権担当者、マーケティングの人たちが日本から来た若者を何とか教育しなければと、出版の難しさ、楽しさ、面白さを手取り足取り教えてくれました。父からも手紙が行っていたようですが、今で言うインターンで、今もこれが一番役に立っています。

──当時の日本の出版人で、英語が得意でかつ交友関係が広いという方は、珍しかったのではないですか。

早川 日本の出版社の若造が向こうへ乗り込んでいって、いろいろなところを回っているのは私ぐらいでした。しかし、どれほど相手から「面白い、映画化される」と言われても、まず自分が原稿を読んで納得しないと権利を買うわけにはいきません。

特に新人作家の作品を読む時はとても神経を使いました。将来性を見据え、時にはその作家と心中する覚悟が要ります。編集者の話を聞きながら、この作家は日本で受けるかな、翻訳者は誰にしよう、題名はどうしよう、新聞広告はどのように打ったらいいかななどと考えながら、翻訳権を買うかどうかを判断しました。まずは自分が感心、感動することが肝腎ですね。

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